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寛平8
寛平1
「平安京物語」26“寛平の治”(かんぴょうのち)は、平安時代中期(9世紀後期)の宇多天皇の治世を理想視した呼称。寛平は宇多天皇の治世の元号である。宇多天皇は、891年(寛平3年)の関白藤原基経の死後摂関を置かず、源能有を事実上の首班[1]として藤原時平と菅原道真、平季長等の近臣を重用し各種政治改革を行った。近年の研究では、従来から言われていた894年(寛平6年)の遣唐使廃止や896年(寛平8年)の造籍、私営田抑制、滝口武者の設置等に加え、国司に一国内の租税納入を請け負わせる国司請負や、位田等からの俸給給付等を民部省を通さずに各国で行う等、国司の権限を強化する改革を次々と行ったとされている[2]。また、天皇親政が行われた治世と評価されたが、摂関不設置は阿衡事件(阿衡の紛議)に懲りた宇多天皇が皇族を母とする藤原氏腹でない天皇であったことと、藤原氏長者時平がまだ若かったことが原因とされている。897年(寛平9年)、宇多天皇は皇太子敦仁親王(醍醐天皇)に譲位し、その2年後に自ら造立した仁和寺で出家し法皇と称したが、病気がちの醍醐天皇に代わって、実際の政務を執っていたという説もある。「延喜天暦の治」と賞せられる醍醐天皇(延喜の治)・村上天皇(天暦の治)の「善政」とされるものの多くは寛平の治の政策の延長上に過ぎず、従来延喜年間のこととされている奴婢制度廃止令も寛平年中に出された形跡があるとする説がある。寛平の治は、王臣家が諸国富豪と直接結びつくことを規制することで権門(有力貴族・寺社)を抑制し、小農民を保護するという律令制への回帰を強く志向したものであり、併せて蔵人所の充実や検非違使庁の権限拡充等天皇直属機関の強化を行うものであったが、後の延喜の治とともに現実の社会制度の変革に適合せず必ずしも成功したとは言えなかった。しかし近年、道真主導による王朝国家体制への転換準備期であったが、時平により道真の政治の記録が抹殺されたため詳細が不明となっていたにすぎないとする意見が出されている。
※宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867) - 承平元年7月19日(931))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887) - 寛平9年7月3日(897)。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる。光孝天皇の第七皇子であり、母は桓武天皇の皇子仲野親王の娘・皇太后班子女王であった。父光孝天皇は即位後に関白藤原基経の妹藤原高子の子であり、陽成天皇の弟であった貞保親王をはばかり、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女を臣籍降下させて源氏とした。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。この臣下時代、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり、二人の体が椅子にぶつかったため手すりが折れたという話が残っている。仁和3年(887年)には光孝天皇が重態に陥ったが、後継を指名しなかった。実力者の基経は天皇の内意が貞保親王ではなく定省にあるとして、また、自身も陽成天皇の弟であり、甥でもあるが、それ以上に非常に仲の悪い妹藤原高子の子である貞保親王は避けたい事もあり、朝議は一決した。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に皇太子に立てられた。定省は基経の異母妹である尚侍藤原淑子の猶子であり、後宮に強い影響力を持っていた淑子は定省後継を熱心に推薦したのが大きかった。しかし基経自身は特に定省を気に入っていたわけではなかった。立太子したその日のうちに光孝天皇が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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