「平安京物語」25“関白藤原基経”

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「平安京物語」25“関白藤原基経”
藤原良房の外戚と言う摂政に嫌気をさしたのか、清和天皇は二十七歳と言う若さで子の貞明親王皇太子に譲位をした。九歳になったばかりの即位の天皇は陽成天皇で、幼少の天皇に補佐するために摂政となったのが藤原基経で良房一門の権力の「たらい回し」の様なものであった。二十七歳とまだまだ若い年齢にも関わらず隠居の身になった清和天皇は半ば政務を投げ出した感じである。
清和天皇の詔で基経が摂政となった。基経は良房の継養子になり兄妹の高子は清和天皇の妃に当り即位した陽成天皇の母に当るので摂政には申し分のない血筋である。
基経の出現は三十七歳、基経は良房の兄の長良の三男で良房に見込まれて継養子になった。良房には文徳の后になった明子の他に実子がいなかった。
良房は自分の身内の優れた男子を模索し、基経が良房の目に適った人物で時によっては実の子より養子の方が家を盛り立てる場合も多い。基経はその良い例であった。
所がこの陽成天皇の評判は芳しくなく、宮中で乳母の子を殴り殺したと噂があると言う。即位してからも素行は悪く暴行事件を起こしたりして、また基経と陽成天皇の相性も良くなかったらしい。陽成天皇が十七歳、即位八年後譲位させられた。
こうなれば摂政の基経の思いもまま、次に担ぎ出した天皇は仁明天皇の子、時康親王で当時すでに五十五歳に達していた。光孝天皇は自分を天皇に即位させてくれた基経にある意味の恩義の様なものが背負わされた感じであるが、見返りか、基経はこの時、太政大臣である。
この基経の職責として、関白の前段の前振りに、天皇は基経に対して「今日から官庁はについて、万政を司り、入っては天皇を補弼し、出ては百官を指揮せよ、全ての事を下命すべきことはし、必ず基経に諮問せよ」といった命令を出した。
即位を光孝天皇の即位僅か三年後に死期が迫ったので次の天皇を模索しなければならない。急遽決められたのは第七子の源定省であるが、臣籍に降っていたが定省を直ちに親王に復された。そして皇太子、即位とわずか二日間で宇多天皇である。
基経と宇多天皇の相性は決して良くなかったようで、基経の妹の当時は後宮に大きな勢力と発言力を持っていた藤原淑子が熱心に源定省を指した。
その見返りとしてか基経に「阿衡(あこう)」と言う中国の殷に時代の称号を与えられたと言う。この称号は諸葛孔明のように三度は辞退をするのが礼と言う。
その前に天皇からこれだけの権力を委ねられ、お墨付きをもらった基経は次に仕えた宇多天皇では「関白」の称号が付けられた。
どうやらこの「阿衡」は橘広相の発案らしく、小難しい称号はかえって基経の反感を買ったらしい。結局広相は不適切な表現を基経に詫びなければならなかった家毗なければならなかった。
この時期に学界を巻き込んで起こった論争を、都を追われ讃岐の守の任にあたっていた傍観をしていた学界の旗手、菅原道真であった。
道真はいたたまれず上京し、この不毛の論争を基経に訴える。何故なら広相と藤原佐世は道真の父是善の門人であった。
以後菅原道真は十年余りで、右大臣に上り詰めて、藤原時平に相対立し策略にはぶれ、大宰府に左遷されるのである。
※摂政の代表的強権を発揮したのは基経であろう。皇位継承の不安定に加え安定をした親政の天皇の出現が無かった。
また幼少の天皇即位の為に努力を発揮する機会を失われ摂関の制度自体に嫌気をさして譲位をする。次の継承する皇位継承者は成人が選ばれない仕組みは摂関の為の皇位継承の体成していたことは明白であった。
源氏、平氏の臣籍降下は皇籍に身を置いても公卿としての役職にも重職に活路が無かったのではないかと思われる。道真も摂関の一角に参入すべく能力を発揮し右大臣にまで上り詰めても、摂関家の基盤の切り崩すことはできなかった。そう言った意味では「藤原家の天下」であった。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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