『歴史の時々変遷』(全361回)257“津軽信章越境事件 “「津軽信章越境事件」元禄2年 (1689)、 4代藩主・津軽信政の異母弟である津軽信章(津軽兵庫

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『歴史の時々変遷』(全361回)257“津軽信章越境事件 “「津軽信章越境事件」元禄2年 (1689)、 4代藩主・津軽信政の異母弟である津軽信章(津軽兵庫)は、一族を引き連れて出羽久保田藩との藩境にある石の塔を通り、無断で久保田藩へ越境(亡命ないしは逐電)を試みた。連絡を受けた津軽家や幕府の指示で津軽兵庫と一族は久保田藩から弘前藩へと呼び戻され、家族は別れ別れにされて生涯蟄居の身となった。一族は待遇面でも経済面でも苦しく、悲惨な最期を遂げた。越境の理由にはいくつかの説があるが、藩主の信政との不和や、山鹿系家臣を優遇する信政の偏った人事に対する不満から、津軽藩を出て久保田藩ないしは紀州藩に仕えようとした、などと言われている。盛岡藩南部氏は、戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は元々、南部氏の分家・大浦氏であったが大浦為信のときに独立した(もともと大浦氏に従属意識は薄かった)。その際に盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたり、南部氏家中の重臣でもあった石川高信らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏は津軽氏と名乗った上で豊臣政権から正式に独立大名として認められてしまったため、南部氏の主張していた領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれ、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。 江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前に、太平洋戦争時に撤去された初代藩主・津軽為信像が再建された2004年時点でも、落成行事に石川高信の居城があった石川地区からの集まりが悪く、主催者側からも特に催促はされなかったという。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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