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『戦国時代の群像』183(全192回)岩城貞隆(1583~1620)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。伊達政宗、岩城常隆は従兄弟にあたる。

平山8
平山4
『戦国時代の群像』183(全192回)岩城貞隆(1583~1620)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。伊達政宗、岩城常隆は従兄弟にあたる。天正11年(1583年)、佐竹義重の三男[2]として生まれる。天正18年(1590年)、岩城常隆が病死したため家督を継いだ。豊臣秀吉からも岩城氏の家督継承を認められ磐城平12万石を安堵された[9]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は東軍方についたが、兄の佐竹義宣の命に従って上杉景勝征伐に参加しなかったため、戦後の慶長7年(1602年)に義宣と共に処分を下された。佐竹家は減封で済んだが、貞隆は全ての所領を没収された。この不当な仕打ちに対して、貞隆は義宣に挙兵まで促したが拒絶された。貞隆は室の実家の相馬家が再興したことに希望を見出し、自らも岩城家再興を願うべく江戸に登って浅草で浪人し、再興運動に尽瘁、飯野八幡宮に度々祈願した。領土召し上げに伴い、多くの家臣が離散したが、『岩城貞隆浅草御浪人中随身諸士名元覚』(1625年)にある四十二士が我が身を省みず随従した。土井利勝の内意を受け[6]、徳川家康に再興を嘆願した結果、本多正信の組となり300人扶持となる[6]。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で正信に従って従軍し、戦功を挙げたため、元和2年(1616年)に信濃国中村に1万石を与えられ、大名として復帰した。貞隆の次兄・義広が当主であった蘆名氏の一族と伝わる天海も貞隆を援助して斡旋を行い、岩城家再興に寄与したという。関ヶ原の戦い後は齟齬を来していた義宣とも実母の仲介によって和解し、和解後、義宣は資金面などで貞隆の御家再興に積極的に援助を行った。元和6年(1620年)死去、享年38。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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