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『戦国時代の群像』180(全192回)増田盛次

増田3
増田1
『戦国時代の群像』180(全192回)増田盛次(1580~1615)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。別名に宗重。兵部大輔を称した。増田長盛の次男。兄に長勝、弟に新兵衛。天正18年(1590年)、豊臣秀次に仕えて盛次と名乗る。豊臣秀吉と秀次の関係が悪化すると、文禄3年(1594年)秀吉の命によって徳川家康に仕えた。文禄4年(1595年)7月15日秀次が切腹すると大和郡山城で謹慎した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・長盛と共に西軍に付き大津城の戦いに参陣したという。戦後増田家は改易、長盛は流罪に処されたが、盛次と庶兄・長勝夫婦は叔父・増田長俊の養子となり連座を免れ、盛次は徳川家康、次いでその子である尾張藩主・徳川義直に仕える。長盛の家督は末弟の新兵衛が相続した。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では徳川方として参戦し、戦功をあげた。しかし豊臣恩顧としての心情から城方が勝つと笑い、寄せ手が勝つと苦い顔をしていたという。このことが冬の陣後家康の耳に達し「流石増田の子」と称賛される。その後、主君・義直の了解を得て尾張家を離れ、父・長盛とも相談の上大坂城に入城する。家康は長盛の監視をゆるやかにするようにと言ったと伝わる。慶長20年(1615年)5月6日、父・長盛が元服の烏帽子親を務めた長宗我部盛親隊に属し、八尾に進軍。徳川方の藤堂高虎隊と交戦する。当初は優勢であったが、その後形勢は徐々に逆転し、長宗我部隊は撤退を余儀なくされた。盛次が殿軍を務めたが、藤堂隊の追撃は激しく、藤堂家臣の磯野行尚(磯野員昌の孫)に討ち取られた。享年不詳。その討死は「はれなる」と称された。箸尾高春(はしおたかはる、天文15年(1546年) - 慶長20年(1615年))は、戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将。室町時代に活動した箸尾宗信・為国父子とは別系統。別名に為綱・行春(為綱については別人説もあり)。正室は筒井順慶の妹。後室に順慶の養女(布施氏の娘)。宮内少輔。大和の国人領主で、はじめ筒井順慶と戦った(筒井城の戦い)が、後に順慶の妹を正室として迎えて和睦し、臣従した。この時、順慶から2万5,000石を与えられ、その前から支配していた知行とあわせて4万石となった。後に織田信長によって松永久秀が大和守護に任命された際にはこれに従っているが、これも一時的なもので、久秀が信長と対立する前に筒井氏に所属しなおしている。ただ、その後もしばしば筒井氏とは戦闘を行っており、必ずしも完全な従属関係ではなかったようで、つかず離れずの関係は天正8年(1580年)に信長が順慶に大和一国を任せるまで続いている(多聞院日記)。順慶の従弟・定次が伊賀に移封されると、その後に大和に入ってきた豊臣秀長に仕えた。秀長の死後は豊臣秀保にも仕えたが、秀保の死後は豊臣秀吉の直臣となった。慶長4年(1599年)の時点で大和広瀬郡内2万石、箸尾城主。(『慶長四年譜候分布帳』)慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して本多俊政の高取城を攻めた(『高取町史』)ため、戦後に改易された。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣直前に大野治房の誘いを受けて筒井氏の旧臣を糾合して、大坂城に入る。そして大野治長配下として奮戦した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で戦死したとも言われているが、大坂城落城後、大和に逃走して間もなく病死したとも言われている。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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