「平安京物語」14“摂政藤原冬嗣(ふゆつぐ)・良房(よしふさ)親子”九世紀中ごろまでは確かに天皇が主導権を持っていたが、冬嗣、良房親子

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「平安京物語」14“摂政藤原冬嗣(ふゆつぐ)・良房(よしふさ)親子”九世紀中ごろまでは確かに天皇が主導権を持っていたが、冬嗣、良房親子辺りから摂政政治に着実に勢力と発言力を高めてきた。嘉(か)祥(しょう)三年(850)仁明天皇が清涼(せいりょう)殿(でん)で死去した。享年四十一歳、例によって皇太子の道(みち)康(やす)親王が即位し文徳天皇の誕生である。即位の四日後に第四子が誕生、惟(これ)仁(ひと)親王である。母親は藤原明子で良房の娘である。                                                                                 
この頃から摂政時代の幕開けとなる。摂政は天皇の外戚になって権力を振るうことで、良房の孫にあたる惟仁親王は第四子、仁明天皇が即位して立太子したのは第一子の恒喬親王が皇太子になった。母方は紀氏の静子である。母系では明子は良房で四十七歳の右大臣である。この二人が未来の皇位継承の対立候補になる。藤原良房(804~872)平安初期の公卿、父は北家の冬嗣、母は南家の真作の娘、仁明天皇の妃とは兄妹、妻は嵯峨天皇の皇女と天皇家とは深い関わりを持ち、父は冬嗣と絶対的立場の地位は摂政にふさわしい血筋だった。
父冬嗣が没した若いころは目立った存在ではなかったが、嵯峨天皇に青年良房に際立った風操に好感をもたれ嵯峨天皇の皇女を潔姫を差し遣わされた。
淳和朝には蔵人から蔵人頭に出世した。(蔵人頭とは光仁元年に設置され令外官。天皇の代替わりに代わり、蔵人所の組織が拡充され天皇の日常を支え、天皇の命令を伝達を行なったほか朝廷の儀式運営にも関わった)崩伝と言う者に寄れば、文徳天皇は頭脳明晰で人事にも見識があって、国司など赴任地に行かず官人に叱責をしたと言う。
ただ虚弱体質で紫宸殿に於いて政務をした様子はなく儀式への出御が極端に少なって行ったと言われている。そう言った体調の面で政務を次の幼少の即位となりかねず、外戚の良房の発言力がたまって行ったわけである。摂関や摂政にとって皇后や太上の存在が出来るだけ排除し、自分たちの外戚で持っ国権を都合の良い形に納めたいのではないかと思われる。
文徳天皇がその死去の前年の斉衡四年(857)それまで右大臣だった藤原良房は太政大臣に任じた。仁明天皇が右大臣に任じて、さらに文徳天皇は治世の功を報いる為のものか外戚の義父に恩を感じての行賞かも知れない。太政大臣は特別な時に過去に仲麻呂に任じられ、その後道鏡にも任じたが任じられた執権者は末路は悲惨で良き例とは言えない太政大臣の職責である。
これを機に太政大臣の地位は外祖父に与えられる慣例のように、平城天皇の外祖父は藤原良継に、淳和天皇には外祖父の藤原百川に、文徳天皇の外祖父には藤原冬嗣がそれぞれ太政大臣の位を任じられた。こう言った外祖父の政権の天皇に替わって携わることが多い。何故なら外祖父は天皇の幼少にして成り得る王権の代行である。文徳は天安二年(858)に三十二歳で、治世後半を過ごした離宮(りきゅう)冷然院(れいぜんいん)で死去してしまう。この時点で即位した惟喬親王は十五歳、一方惟仁親王皇太子(文徳天皇と良房の明子の子・清和天皇)十一歳であった。世間の目としては、まずは惟喬親王を即位させ、次に我孫の惟仁親王を即位させる。そんな筋書きに満足させる良房ではなかった。皇太子であった兄の惟喬親王を頭越しに即位をしたのである。
良房は惟仁親王の後継の正統性を強調するために、即位の旨を報告する陵墓の変遷があった。山階陵(天智)嵯峨陵(嵯峨)真原陵(文徳)愛宕陵に奉幣を行なった。
何故なら愛宕陵は嵯峨天皇の皇女であり、良房の妻であり、文徳の妃であることと血筋の正統性を強調するものであった。そんな強権に異を唱える者も無かった。次に惟喬親王が即位をして清和天皇となって妃に良房の娘高子を嫁がせ、その後良房は陵墓の奉幣は皇位を付けるための「お墨付き」の手法に使ったようである。ここに九歳と言う年齢で異例の即位、九歳でとても政務を執れる訳が無いので後見人的立場で本来なら上皇なり右大臣、左大臣であるが摂政は外祖父が実権を握り、自分たちの娘を宮廷に送り込み、男子を生まれるのを待って、皇位を付ける道筋を立てて行く手法で摂政を一族の手に治める手法である。
貞観六年(866)清和天皇の元服を持って良房の摂政は一旦は廃止された。その後応天門の変が起きた。貞観八年に“応天門の変”が起きた。同年三月に朝堂院の正門で応天門が何者かによって放火さ焼け落ちた事からこの事件は始まる。火は東西の両楼に広がり全てを焼失させた事件である。当初それが誰の仕業か皆目わからず、五畿七道の諸神と加護を乞い、京内の東西の両寺に仁王般若経を転読させた。都の人々は引き継な予兆として動揺が広まった中、大納言伴善男が応天門の犯人として左大臣源信を告発したが、やがて伴善男もその一味と言う男が現れ、結局伴善男、紀夏井らが断罪されたが、大納言伴善男は右大臣良相に対して応天門の失火は左大臣源信こそ犯人であると告げ善処を求めた。これを聞いた良房は極力左大臣源信の無実を主張させ、年少の清和天皇はその言葉に同意し源信を追及はしなかった。
事の次第は真犯人は伴善男とその息子中庸らが共謀し応天門に放火したと密告をした。これらには決定的な証拠も無く密告者も伴善男らに恨みをもつ者として調べは長引いた。
しばらくして大納言伴善男・中庸と共謀者として紀豊成ら従者を遠流の刑に処した。詳しい事は闇の中にうやむやにされていった。この断罪の結果が出るまで間に太政大臣藤原良房が「天下の政ごとを摂行せよ・・・」達しがあった。結局藤原良房の処遇や意向が反映されたものになった。良房の一時隠居を改めて存在感を出させて再び良房の摂政時代へと舞台へと移って行った。
★仁(にん)明天皇(みょうてんのう)(810~850)在位十七年間、嵯峨天皇の皇子。母は皇后橘(たちばな)嘉(か)智子(ちこ)。淳和天皇の皇子となって即位。
恒貞親王を皇太子に立てた。承和の変で恒貞親王を廃し、藤原順子と間で生まれた道康親王を皇太子にした。四十一歳で出家し間もなく死去した。
★文徳天皇(827~858)在位八年、仁明天皇の第一子。母は藤原冬嗣の娘順子。道康親王。承和の変で皇太子恒(つね)貞(さだ)親王が廃された後を受けて立太子をした。
右大臣藤原良房の画策によって擁立された。
仁明天皇の死後に即位し、良房の女の明子から生まれた惟仁親王を立太子をさせた。良房を太政大臣に任じたが、翌年三十二歳の若さで死去した。
★藤原冬嗣(775~826)平安の公卿、父は内麻呂、母は百済(くだら)永(なが)継(つぐ)。桓武天皇の良岑安(よしみねやす)世(よ)とは異父兄弟。春宮(とうぐう)大進(だじょう)となりその後昇進し、初代の蔵人頭となった。大納言、右大臣、左大臣と昇進したが五十二歳で死去した。女御に順子を送り込み道康親王(文徳天皇)生み皇室との関係を深めた。※摂関家は女御を送り込めることから成立する。従って藤原冬嗣などの藤原家の有力な家系の女子が生まれなければ次期天皇候補の親王に送り込めない。送り込んでも御子が生まれなければ意味をなさない。しかも男子の御子が生まれなければ立太子に立てられない。摂関家にも数々のハードルを越えて天皇の外戚と成れるもので、それも天皇に入内させても、自分ひとりだけではなく、藤原家以外も警戒しなければならない。道真と時平の権力争いに道真も娘を入内させていて、時平も警戒をして道真の追い落としの機会を模索し、あらぬ事実で「道真は天皇を廃し、弟帝で自分の娘婿である斎世親王を皇位に付けようとしておりますと告口をした」この工作で道真は大宰府に流されたのである。
女御として入内させても対立候補を排除しなければならないし、あらゆる手立てをして自分の娘に生まれた親王を有利に導くか凌ぎを削るのである。摂関家の必須条件は外祖父、外戚になる事が第一であった。






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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
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