スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

>『戦国時代の群像』174(全192回)「徳川秀忠」(1579~1632)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。徳川家康の三男

秀忠9
秀忠6
『戦国時代の群像』174(全192回)「徳川秀忠」(1579~1632)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。江戸幕府の第2代征夷大将軍。徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室の西郷局。母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。長兄・信康は秀忠の生まれた年に切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛して元服、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。秀吉から、豊臣姓を与えられる[注釈 1][1]。その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。文禄4年(1595年)には秀吉の養女・江と再婚する[注釈 2]。秀吉から、羽柴の名字を与えられる[1]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされている。慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実のものとなる。そしてわずか2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された[2]。将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との接渉を担当した。大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。なお、将軍襲職の際に源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある[3]。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。一方、弟・松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。元和9年(1623年)に将軍職を嫡男・家光に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで後水尾天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇の外戚となった。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年1月に薨去。

スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。