『歴史の時々変遷』(全361回)242“道明寺の戦い” 「道明寺の戦い」江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、

道明寺1
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『歴史の時々変遷』(全361回)242“道明寺の戦い”
「道明寺の戦い」江戸幕府と豊臣家の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣における戦いの一つ。豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗[要出典]など総勢34,300の兵で構成されていた。4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めた。5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。作戦が既に破綻していること認めた後藤は、石川を渡り小松山(現在の玉手山公園一帯)に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤は戦死、後藤隊も壊滅した。道明寺の戦い・午後 拡大、このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るい奮戦したが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になった。午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田隊を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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