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「平安京物語」2、“長岡京遷都”平城京での肥大化し、奈良仏教の影響力に翻弄され統制機能を失い、天武天皇系から断絶した天智系の復活

長岡1
長岡2
「平安京物語」2、“長岡京遷都”平城京での肥大化し、奈良仏教の影響力に翻弄され統制機能を失い、天武天皇系から断絶した天智系の復活によって、首都平城京を朝廷は見切りをつけ、新たな新都を模索し、長岡京へと遷都に方向を定めた。延暦3年(784)11月に平城京から長岡京に桓武天皇の勅命が下された。造営には河川を使って物資を運べる利点があった。延暦4年(785)正月に宮殿で新年の儀式を行った。この都は建築から僅か半年で完成したことになる。この宮殿建設には遷都に反対する奈良の人々の押し切っての為を意識したのか、急速に段取りが組まれた思われる。遷都の際には難波の宮の宮殿の資材を移築し、平城京の宮殿の資材を使用をしなかった。また遷都の際に朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対派を退けた。しかしその後不吉な出来事が起き、同年9月に造長岡宮使の藤原種継が暗殺され、その首謀者の陰に平城京の仏教関係者が含まれていた。またこの暗殺に桓武天皇の弟の早良親王の反逆の嫌疑が掛かり幽閉・配流となって親王は配流先に向かう途中で恨みを抱いたまま死去した。親王の死後には天候異変で干ばつに飢餓・疫病が大流行し、天皇・皇后の近親者が相次ぎ死去した。その原因を陰陽道師に占わせたところ、早良親王の恨みと怨霊と結果が出た。その直後二か月後に二度の大雨で都の流れる川が氾濫し大きな被害をもたらした。和気清麻呂の建議もあって平安遷都することになった。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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