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『戦国時代の群像』161(全192回)「宇喜多秀家」(1572~1655)安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は備前宰相。戦国大名としての宇喜多氏

宇喜多1
宇喜多⑤ (2)
『戦国時代の群像』161(全192回)「宇喜多秀家」(1572~1655)安土桃山時代の武将、大名。豊臣政権下の五大老の一人。通称は備前宰相。戦国大名としての宇喜多氏最後の当主であり、岡山城主、備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石。元亀3年(1572)、備前国岡山城(岡山県岡山市北区)主の宇喜多直家の次男として生まれた。通称は八郎を称した。天正9年(1581)に父・直家が病死。天正10年(1582)、当時宇喜多氏が従属していた織田信長の計らいにより本領を安堵され、家督を継いだ。直家の死後、宇喜多軍は信長の命令によって中国遠征を進めていた羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いている。また、戸川秀安や長船貞親ら直家以来の重臣が秀家を補佐した。6月2日、秀家11歳の時本能寺の変が起こって信長が死去する。このため、秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名にのし上がり、大国・毛利家の監視役を務めることとなった。後に元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗った。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることとなった。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。天正13年(1585)、3月に紀州征伐に参加したのち、四国攻めでは讃岐へ上陸し後に阿波戦線に加わった。天正14年(1586年)の九州征伐にも日向戦線に参加した。天正15年(1587)、秀吉から、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられる。天正18年(1590)の小田原征伐にも参加して豊臣政権を支えた。文禄元年(1592)からの文禄の役には大将として出陣し、李氏朝鮮の都漢城に入って京畿道の平定に当たる。翌文禄2年(1593)1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らと共にこれを打ち破り、6月には晋州城攻略を果たすなどの武功を挙げた。これらの功により、文禄3年(1594)に参議から従三位中納言に昇叙した。慶長2年(1597)からの慶長の役では毛利秀元と共に監軍として渡海し、左軍を率いて南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道、忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。慶長3年(1598)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられた。そして8月、秀吉は死去した。秀吉没後の慶長4年(1599)、重臣だった戸川達安・岡貞綱らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。騒動の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と徳川家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続けた結果、国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなった結果、家康が裁断し、内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となり、花房正成も出奔した。この騒動で戸川・岡・花房ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。なお、上記の三名はこの後家康の家臣となっている。原因は家臣団の政治的内紛に加え、秀家の素行に問題があったことのほか[注釈 2]、宇喜多家の執政であった長船綱直や奉行人中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったが、秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令するに至ったためともいわれる。しかし坂崎直盛は敬虔なキリシタンであり、宇喜多家内でキリスト教入信を斡旋し、明石全登などを入信させたのは直盛本人である。これにより、キリスト教徒と日蓮宗徒との軋轢というのは考えにくく、また綱直は宇喜多家譜代の家臣であり、譜代家臣と前田家からの御付組みとの対立との構図も外れており、背景の詳細は分かっていない。秀吉没後、後を追うように豊臣秀頼の後見役だった前田利家が慶長4年(1599)に死去すると、豊臣家内で武断派の加藤清正・福島正則らと、文治派の石田三成・小西行長らとの派閥抗争が表面化した。これに乗じた五大老の徳川家康が、豊臣家における影響力を強めることとなる。そして清正ら武闘派7将による石田三成襲撃事件が勃発した際には、秀家は佐竹義宣とともに三成を救出した。慶長5年(1600)、家康が会津征伐のため出兵している機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主に担ぎ、打倒家康のために挙兵した。秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃した後、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力(西軍の中では最大の1万7,000人)として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。そこで落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿った(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)。その後は変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。『常山紀談』では薩摩に遁れ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される。慶長11年(1606)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも伝えられる。また、元和2年(1616)に秀家の刑が解かれるや、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったともいう。八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした説もあり)などの逸話が伝わっている。また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている。明暦元年(1655年)11月20日、死去。享年84。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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