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『戦国時代の群像』155(全192回) 佐竹義宣(1570~1633)戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)

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『戦国時代の群像』155(全192回)
佐竹義宣(1570~1633)戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。佐竹氏19代当主。出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主。佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘。伊達政宗は母方の従兄にあたる[1]。義宣は、元亀元年(1570年)7月16日、太田城に生まれた。義宣が誕生したころ、父・義重は、那須氏を攻めていたが、元亀3年(1572年)、那須氏と和睦した。この和睦は、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。当時、義宣は3歳であった。天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続した。このころの佐竹氏は、天正12年(1584年)に後北条氏と和議を結んで南方を抑えていたが、北方では伊達政宗に黒川城(弟・蘆名義広が城主となっていた)を陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。佐竹氏は、伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。こうした状況下において、義宣は、天正17年(1589年)11月28日、秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受けた。しかし、義宣は南郷において伊達政宗と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかった[7]。義宣は、秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて、宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、天正18年(1590年)5月27日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった[7]。秀吉のもとに参陣した義宣は、天正18年(1590年)6月、石田三成指揮の下、忍城を攻めた。義宣は、忍城水攻めの際の堤防構築に従事した。小田原の役後、義宣は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。天正19年(1591年)9月16日、秀吉が唐入りのため各国大名に出兵を命じ、義宣も、5,000人の出兵を命じられた。この軍役は文禄元年(1592年)1月から翌文禄2年(1593年)閏9月まで約21ヶ月間続き、当初の5,000人の軍役は途中で3,000人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された[10]。文禄3年(1594年)1月19日、義宣は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。この伏見城普請は3,000人役にて約10ヶ月間続いた。文禄4年(1595年)6月19日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定されたことを受け、義宣は、54万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領した。また、義宣は、文禄4年(1595年)7月16日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化した。慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去したことを契機として、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政は、石田三成の屋敷を襲撃した。この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた[27]。会津征伐のため東国の諸大名を京都に招集した。義宣もこれに応じ、同年5月中旬、京都に到着した。同年6月6日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸へ帰った。この時期の佐竹氏の動向は、東軍につくとも西軍につくともいえないものであった。義宣は、慶長5年(1600年)7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようであり、自軍の赤館以北への進軍を差し止めた。密約は交わしたものの、佐竹氏内部に積極的に石田方に付こうとする空気が醸成されておらず、義宣は、内部の意志統一がなされていない状態で密約を交わしてしまったとも指摘されている[35]。義宣は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのをみて、佐竹氏に累が及ぶことを恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かった。途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続の懇願をした。『徳川実記』によれば、徳川家康は、義宣のことを、「今の世に佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度を念頭に置いたものである。慶長7年(1602年)3月、義宣は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。その直後の同年5月8日、義宣は、家康から、国替えの命令を受けた。しかし、転封先は明らかにされず、従って、転封後の石高も不明だった。そこで、義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与えることはできないであろうことや、50石または100石取りの給人については転封先に連れて行かないことなどを述べている。5月17日、転封先が出羽国秋田郡に決定した。54万石から20万石への減転封であった。ただし、佐竹氏の正式な石高が決定されたのは、佐竹義隆の代になってからである[41]。義宣は、慶長7年(1602年)9月17日、秋田の土崎湊城に入城した。義宣は、角館城、横手城及び大館城等を拠点として内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定を図った。後に土崎湊城は廃されることとなり、慶長8年(1603年)5月から築城が始まった久保田城を本城とすることになった。父・義重は、横手城を本城にすべきと主張したが、義宣は、久保田城を本城にすべきと主張し、そのように決定したのである。義宣は、秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して、新たな政策の実施と人材登用を可能にした。慶長19年(1614年)の大坂の陣では、義宣は徳川方として参陣した。義宣は、慶長19年9月25日、参勤のため久保田城を出立していたが、その途中、同年10月7日に大阪への出陣命令を受けた。これを受けて佐竹軍は、同月15日以降、順次久保田城を出発し、江戸にいた義宣は同月24日に江戸を出発した。義宣が大阪へ到着したのは、同年11月17日である。義宣は、玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢とあたった。この際、渋江政光が戦死した(今福の戦い)。今福の戦いでの勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まった。大阪の役(冬の陣)において幕府から感状を受けたのはわずか12名であったが、うち5名を佐竹家中の者が占めたことからも、そのことが分かる。義宣の妻は、正室が正洞院(那須資胤の娘)、後室が大寿院(多賀谷重経の娘)、また側室が岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、大寿院に男子が2人生まれたもののいずれも夭逝したため、世嗣たるべき実子はなかった。そこで、佐竹北家当主となっていた申若丸(佐竹義直、義宣の末弟)を宗家へ引き上げて嫡子とした[53]。北家へは後に、高倉永慶へ嫁いだ妹の第2子(佐竹義隣)を継嗣として入れた。義直廃嫡1ヶ月後の4月25日、大御所・徳川秀忠から、亀田藩主の岩城吉隆(義宣の弟・岩城貞隆の子)を新たな継嗣にする許可を得た。親族とはいえ他藩の藩主を継嗣にするというのは大事であるが、義宣が秀忠から全幅の信頼を得ていたために可能となったものである。寛永10年(1633年)1月25日、義宣は、江戸神田屋敷で死去した。64歳であった。法名は浄光院殿傑堂天英大居士、墓所は秋田県秋田市泉三嶽根 天徳寺である。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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