『歴史の時々変遷』(全361回)223“醍醐の花見” 「醍醐の花見」慶長3年3月15日(1598)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴

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『歴史の時々変遷』(全361回)223“醍醐の花見”
「醍醐の花見」慶長3年3月15日(1598)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではない前田利家正室・まつが続いた。
宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、北政所とは家族ぐるみの長い付き合いのまつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て(まつは家臣筋といえど、この席では客人。客人をほうって於いて身内で順争いをするものではない為)その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八番の茶屋の路地茶屋(パビリオン)の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。この花見で詠まれた和歌の短冊は今も「醍醐花見短冊帖」として三宝院に保管されている。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を実現させたともいう。秀吉はこの約5か月後に没した。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。招待客は約1,300人。
花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した。場内には八番の茶屋が設けられ、茶会や歌会が催されたほか、湯殿のある茶屋もあった。
参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調され、衣装代だけで2015年現在の39億円に相当する金額がかかった。後年に制作された「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には花見の想像図が描かれている。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
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