『戦国時代の群像』148(全192回) 立花宗茂(1567~1643)戦国時代の武将で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。

立花7 (1)
立花7
『戦国時代の群像』148(全192回)
立花宗茂(1567~1643)戦国時代の武将で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将はいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人であるなお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。
永禄10年(1567年)8月18日、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣・吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる。
幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。永禄12年(1569年)、父・鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、元服後は高橋統虎(むねとら)と名乗る。天正9年(1581年)、男児の無かった大友氏の重臣・戸次鑑連が統虎を養嗣子として迎えたいと希望してきた(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたり、同僚であった)。
紹運は宗茂の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日、宗茂を道雪の養子として出している。
このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっきむねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られたが、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したという。
同年7月27日(一説は11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地です、後述の戦闘と混同の可能性がある)、養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏との第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂の戦いとも)で初陣を飾る。
太宰府南方と筑紫野市針摺北方の間に石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。
この合戦で宗茂は150人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。
左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を圧倒し、家臣の萩尾治種(萩尾大学麟可)が堀江を討ち取って手柄を立てた。
同年11月6日には道雪・紹運と共に嘉麻・穂波の地に出陣。立花勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景(統景の大叔父)との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。
立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。
天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟が5万を号する島津軍を率いて筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。
このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。
この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田種実隊2,000を撃退し700余の首を取った。8月20日にも秋月種長隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている。
その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」と要請された。
その後も秀吉の九州平定で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とした。更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した。
戦後、秀吉はその功を認めて筑後国柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である」、「九州の逸物」(立花文書によると原文:誠九州之一物ニ侯。)と高く評価したという。
天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200(2,800や3,000諸説ある)と輜重隊を率いて出陣、既に一揆方の伏兵の計を察知し、これを逆用して先に兵を三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。
そして平山城を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増や米多比鎮久ら騎馬鉄砲の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取って、「火車懸」という戦術を繰り出した。
その内、十時連貞、水野勝成、安田国継三将の連携も大きい活躍と伝わる。立花・高橋軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方(和仁親実、辺春親行、大津山家稜)3,000の兵に包囲された。
その対応のため、先に輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で正面に和仁、左右に辺春、大津山そして後方より有働軍に挟撃され、双方の旗本武将が乱戦となる。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有働下総守と一騎討ちして討ち取った。
やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城や軍隊の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。
立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。
大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。
また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。
12月26日、佐々成政と共に一揆の首謀者・隈部親永の城村城を攻め落とし、隈部一族ら12人を預かり、翌年5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人の討手と真剣勝負、放討ちという形で全員切腹させた。
放討ちの場面に震撼された監察役の浅野長政は秀吉に報告した、秀吉は「さすがは立花である」と宗茂を讃えた。天正16年(1588年)に上洛し、7月に従五位下侍従に叙任される。
同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた。
のち岩槻や江戸に参陣。朝鮮出兵頃より宗茂は、統虎という名乗りから鎮虎、次いで宗虎(むねとら)へ名乗りを改めている。文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している。
4月、諸将と共に東莱城を攻め落とした。6月26日、宇喜多秀家の要請で火計と釣り野伏せ戦法を使って漢城北方の朝鮮軍を駆逐。漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下したが、錦山・梁丹山で数次にわたる朝鮮軍や義兵の趙憲・霊圭の攻撃を受けて後方を脅かされたため侵攻は停滞した。また、7月に遼東半島から来た明の援軍である祖承訓が平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまった。
7月17日の第一次平壤の戦いは小西行長、大友義統、黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃退したが、一門の重臣・立花鑑貞(中国語版)(戸次直貞)を失った、後に宗茂も漢城方面への転出を命じられたため全羅道攻略を果たせなかった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。
家中でも重臣・薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。
その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。
宗茂は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将・丸毛萬五郎、箕浦備後、三田村安右衛門三人を捕縛した。この戦で宗茂は高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余(約1.8m)の塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父・道雪の発案した「早込」を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じた。
その機を見た家臣の立花成家や内田統続らが一番乗りを果たし、三の丸から二の丸まで突破したという。また、「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えている。しかし9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。
大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた。なお、柳川に引き上げる時に実父・高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。
関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた。
開城後は改易されて浪人となる。その器量を惜しんで加藤清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。その後、清正の元を離れ、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。
正室・誾千代は立花家改易後、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月頃から病を患い、10月17日に死去した。享年34。誾千代の死により、養父・道雪の血筋は途絶えた。
誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝の推挙で江戸城に召し出される。
寛永14年(1637年)には島原の乱にも参陣し、総大将の松平信綱を輔佐した。宗茂は城兵の様子から、黒田軍への夜襲を予告し、それが的中したため、家臣たちは宗茂の観察眼の鋭さに舌を巻いたという[34]。軍事進言や兵糧攻めの戦略面の指揮を執り、有馬城攻城時には一番乗りを果たして昔日の勇姿を見せ、諸大名に武神再来と嘆賞された。
翌年、家督を養子・立花忠茂に譲って致仕・剃髪し、寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。享年76。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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