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『歴史の時々変遷』(全361回)220“文禄・慶長の役” 「文禄・慶長の役」文禄元年/万暦20年/宣祖25年(1592)に始まって翌文禄2年(1593)に休戦した文禄の役と

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『歴史の時々変遷』(全361回)220“文禄・慶長の役”
「文禄・慶長の役」文禄元年/万暦20年/宣祖25年(1592)に始まって翌文禄2年(1593)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。
なお、文禄元年への改元は12月8日表記。( )の年は西暦である。日本の天下統一を果たした天下人秀“日本名僧・高僧伝” 92・「専誉」(せんよ)豊山派の派祖はそとなった専誉僧正せんよそうじょうは、戦国時代の享禄3年(1530)、泉州大鳥郡、今の大阪府堺市に生れました。幼名を安鶴丸あんつるまるといい、父は石垣氏、母は観音信仰のあつい人であった。
 天文7年(1538)9歳の安鶴丸は父に連れられて根来山ねごろさんに登り、学頭がくとうであった妙音院玄誉げんよの弟子となり、12歳のとき父が家来に毒殺され、無常観を深めた安鶴丸は、翌天文11年(1542)剃髪得度てし、名を専誉と称した。
13歳のことでした。正式に僧となった専誉は、いよいよ仏教の勉学や修行に励んだ。 20歳のとき、東大寺の戒壇院かいだんいんで具足戒ぐそくかいを受け、続いて南都なんと、醍醐だいご、三井みい、叡山えいざんなどの各山で勉強し諸流の奥義をきわめられたと伝えられる。 
再び根来に戻られたときには、妙音院頼玄らいげん能化のうけに抜擢され、脇能化わきのうけ(今でいう、副学頭ふくがくとう)として僧たちの指導にあたり、天正12年(1584)8月11日54歳の時に、ついに学頭職につき、 このころ根来山は所領70万石、僧侶6,000人、さらに強力な僧兵が多数いました。
天下統一をはかる羽柴秀吉はそれら僧兵たちを擁する根来山に降服を勧めたが、応じなかったため攻撃され、2,700余の堂塔は一夜にして灰燼に帰してしまった。
 学頭職であった専誉は多くの学徒をひきいて高野山こうやさんにのがれ、次いで京の醍醐寺に身を寄せて講義を続けていましたが、やがて泉州国分寺に隠棲しました。

吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。
秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。
明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。
双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。
朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。
「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃)に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。
この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではないし、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる。
堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判したが、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた。
これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。
明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。
しかし懲罰の意味合いのある「征伐」や「征韓」(または征明)の表現は日本では避けられるようになっている。「朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、ほぼ全ての国語辞典や辞書等に項目がある。戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている。
1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」が盛んに使われた時期もあり、「大陸侵攻」などの表現も登場した。
1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。
近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。
中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬曆朝鮮之役」と称されている。
日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。
中国から見て遠征であったという解釈では「萬曆東征」という呼称もある。また「萬曆日本役」という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。
朝鮮半島(韓国・北朝鮮)では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を「壬辰倭乱」と呼び、慶長の役を「丁酉倭乱」または「丁酉再乱」と呼んだ。
現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、2つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。
また、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」と言う呼称も用いられる。近年、三国の自国史を超克することを目的として行われた日韓中共同研究では「壬辰戦争」という呼称が提唱された。
韓国の歴史学界でも、倭乱の使用は自国中心史観で不適切として、一部の教科書では2012年から「壬辰戦争」との表記に変わった。





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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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