スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

“日本名僧・高僧伝”91・教如(きょうにょ、敎如[1])[5]は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。 東本願寺第12代法主。永禄元年9月16日(1558年10月27日[2])、顕如の長男として誕生。

教如2
教如1
“日本名僧・高僧伝”91・教如(きょうにょ、敎如[1])[5]は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。 東本願寺第12代法主。永禄元年9月16日(1558年10月27日[2])、顕如の長男として誕生。永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度。元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘である三位殿と婚約。天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。しかし教如は徹底抗戦を主張する。そのため顕如は、教如を義絶[7]する。その後も教如は石山本願寺に籠城する(大坂拘様)が、8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す[8]。その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長は暗殺された。6月23日、後陽成天皇は顕如に教如の赦免を提案。6月27日、顕如より義絶を赦免される。赦免後は、顕如とともに住し、寺務を補佐する。文禄元年(1592年)11月24日、顕如の示寂にともない本願寺を継承する。この時、石山合戦で篭城した強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した穏健派は重用しなかった為、教団内に対立が起こる。文禄2年(1593年)閏9月12日、豊臣秀吉は教如を大坂に呼び、下記の十一か条を示した。穏健派が秀吉に働きかけたと考えられる。慈昌(じしょう、天文13年1月10日(1544年2月2日) - 元和6年11月2日(1620年11月25日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土宗の僧。号は貞蓮社源誉存応。武蔵国多摩郡由木の出身。初め武蔵国新座郡の時宗大平山法台寺の蓮阿に師事して出家、一遍の法流を伝えた。1561年(永禄4年)岩瀬大長寺の存貞に従って浄土宗に改宗した。その後武蔵国川越蓮馨寺をへて、1574年(天正2年)与野長伝寺を開創し、1584年(天正12年)には江戸増上寺の12世となる。1590年(天正18年)徳川家康の関東入部にともない師檀の関係を持ち、増上寺は徳川家の菩提寺となった。1598年(慶長3年)増上寺の寺地を現在の芝(東京都港区)に移して、家康の手厚い保護のもと京都知恩院とともに浄土宗の名刹となった。浄土宗法度や浄土宗関東十八檀林制度の議に参加し、また紫衣の綸旨を賜っている。「普光観智国師」の号を贈られた。義演(ぎえん、永禄元年8月20日(1558年10月1日)- 寛永3年閏4月21日(1626年6月15日))は、戦国時代から江戸時代にかけての真言宗の僧。父は二条晴良、母は伏見宮貞敦親王王女の位子。室町幕府15代将軍・足利義昭の猶子となる。元亀2年(1571年)に得度して醍醐寺理性院の尭助に師事し、天正3年(1575年)には醍醐寺金剛輪院を再興している。天正4年(1576年)醍醐寺第80代座主に就任。天正7年(1579年)に大僧正、同13年(1585年)に准三后宣下、文禄3年(1594年)には東寺長者に任じられている。豊臣秀吉が朝鮮出兵を行う際、東寺で仁王経大法会を修している。天皇・上皇・武家の尊崇を受け、特に秀吉が度々醍醐寺を訪れている。また豊臣秀吉・秀頼親子の援助を受けて醍醐寺三宝院を復興している。また、義演は、三宝院の宝蔵の充実を図るために貴重な書籍を見つけては、何人かの手で筆者させ、それを宝蔵に収集した[1]。その中の、法然伝記の一級資料と評される、『法然上人伝記』(醍醐本)は、法然に近侍した源智が書き記したといわれるものを、義演が江戸時代初期に書写させたたものであり、大正6年(1917年)に醍醐寺三宝院の宝蔵から発見された。


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。