『歴史の時々変遷』(全361回)218“九戸政実の乱” 「九戸政実の乱」天正19年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣

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『歴史の時々変遷』(全361回)218“九戸政実の乱”
「九戸政実の乱」天正19年(1591)、南部氏一族の有力者である九戸政実が、南部家当主の南部信直および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱である。
近年では「九戸政実の決起」などと称することもある。南部氏最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほど領土を広げた第24代当主・南部晴政が、天正10年(1582)没すると南部家内は後継者問題で分裂する。
それ以前から南部晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、石川信直を盟主とする北信愛、南長義の連合の南部一族間で対立があり、本家である三戸南部家当主を継いだ南部晴継が同天正10年13歳で急死すると、九戸家と石川家の南部宗家後継者争いが本格化する。
石川(南部)信直が九戸実親を退けて半ば強引に三戸南部家当主となり南部氏惣領になったことにより、実親の兄・九戸政実は大いに不満を持ち、南部信直との関係は亀裂状態であった。
南部氏は、三戸南部氏を中心とした八戸氏・九戸氏・櫛引氏・一戸氏・七戸氏ら南部一族による連合である「郡中」による同族連合の状況であったが、天正18年(1590)7月27日の豊臣秀吉朱印状によって、三戸南部氏の当主信直が南部氏宗家としての地位を公認されて近世大名として組み込まれ、それ以外の有力一族であっても宗家の「家中」あるいは「家臣」として服属することを求められたことで、九戸氏は反発し信直と激しく対立する。
南部信直が兵1000を引き連れ小田原征伐とそれに続く奥州仕置に従軍していた留守中の天正18年(1590)6月、九戸側は三戸南部側である南盛義を攻撃する。
南盛義は討ち死にし、以後南部家中は緊張状態が続いた。 その頃、秀吉の奥州仕置軍は平泉周辺まで進撃し、大崎氏、葛西氏、黒川氏ら小田原に参陣しなかった在地領主の諸城を制圧して検地などを行ったあと、奉行である浅野長政らが郡代、代官を配置して軍勢を引き揚げた。
奥州仕置軍が各々領国へ帰って行った同年10月から陸奥国各地で、奥州仕置に対する不満から葛西大崎一揆、仙北一揆など大規模な一揆が勃発する。
南部信直は和賀・稗貫一揆に兵を出すが稗貫氏の元居城である鳥谷ヶ崎城で一揆勢に包囲されていた浅野長政代官を、南部氏居城の三戸城へ救出するのが精一杯で、積雪により討伐軍が出せなくなった。
情勢が不穏の中で天正19年(1591)の新年を迎えると、九戸氏は三戸城における正月参賀を拒絶して南部本家への反意を明確にする。
三戸城に配置されていた浅野長政代官が、2月28日上杉景勝重臣で横手盆地西端の大森城に駐在する色部長実に送った手紙には「逆意を持った侍衆がおり糠部地方が混乱状態にあること、当地の衆が『京儀』を毛嫌いし、豊臣になびく南部信直に反感を抱いていること、仕置軍の加勢が無ければ南部信直は厳しい状態であること」などを伝えている。
また同日に南部信直から色部長実に送られた手紙にも「逆意を持った者達に手を焼いているが仕置軍が来るのは必定である」という旨を書いている。
同年3月に九戸側の櫛引清長の苫米地城攻撃を皮切りに、ついに九戸政実は5千の兵を動かして挙兵し、九戸側に協力しない周囲の城館を次々に攻め始めた。
3月17日付の浅野長政代官から色部長実への手紙には「九戸、櫛引が逆心し油断ならないこと、一揆勢は仕置軍が下向するという噂を聞いて活動を控えている」ということなどが書かれている。
もともと南部氏の精鋭であった九戸勢は強く、三戸南部側も北氏、名久井氏、野田氏、浄法寺氏らの協力を得て防戦につとめたが、南部領内の一揆に乗じて九戸勢が強大化し、更に家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり、三戸南部側は苦戦する。
そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦めて信直は息子・南部利直と重鎮・北信愛を上方に派遣、6月9日には秀吉に謁見して情勢を報告した。
九戸以外にも、大規模な奥州での一揆鎮圧のため、秀吉は同年6月20日に号令をかけて、奥州再仕置軍を編成した。
白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示している。
奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北進し蒲生氏郷や浅野長政と合流、8月下旬には南部領近くまで進撃した。8月23日、九戸政実輩下の小鳥谷摂州は50名の兵を引き連れて、美濃木沢で仕置軍に奇襲をかけ480人に打撃を与え、これが緒戦となった。
9月1日には九戸勢の前線基地である姉帯、根反城が落ち、これに抗した九戸政実は九戸城に籠もり、9月2日には総勢6万の兵が九戸城を包囲、攻防を繰り返した。
九戸城は、西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害であった。城の正面にあたる南側には蒲生氏郷と堀尾吉晴が、猫淵川を挟んだ東側には浅野長政と井伊直政が、白鳥川を挟んだ北側には南部信直と松前慶広が、馬淵川を挟んだ西側には津軽為信、秋田実季、小野寺義道、由利十二頭らが布陣した。
九戸政実はこれら再仕置軍の包囲攻撃に少数の兵で健闘したが、城兵の半数が討ち取られた(仕置軍・南部側説)。 
そこへ浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚を使者にたて「開城すれば残らず助命する」と九戸政実に城を明け渡すよう説得させた(当初から和睦と見せかけた蒲生氏・浅野氏の計略説も在り)。
九戸政実はこれを受け入れて、弟・九戸実親に後を託して9月4日、七戸家国、櫛引清長、久慈直治、円子光種、大里親基、大湯昌次、一戸実富らと揃って白装束姿に身を変えて出家姿で再仕置軍に降伏する。浅野、蒲生、堀尾、井伊の連署で百姓などへ還住令を出して戦後処理を行った後、しかし助命の約束は反故にされて、九戸実親はじめ城内に居た者は全て二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ火をかけられた。 
その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。九戸城の二ノ丸跡からは、当時のものと思われる、斬首された女の人骨などが発掘されている。政実ら主だった首謀者達は集められ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で処刑された。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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