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戦国時代の群像』146(全192回) 大谷吉継(1565~1600)戦国『時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣

大谷2
大谷1
戦国時代の群像』146(全192回)
大谷吉継(1565~1600)戦国『時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたにぎょうぶ)の通称でも知られる。業病[注釈 4]を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し、ついに敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとされてきたが、現在は永禄8年(1565年)を生年とする説が有力である。父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説もあるが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。『華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。母が高台院の侍女であったことを根拠に秀吉の隠し子とする説もあり、吉継の名が秀吉を継ぐすなわち吉継から出た俗説ともされる。兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している[18]。その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。秀吉と織田家筆頭家老である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させ、合戦においても先懸衆として石田三成らと共に七本槍に匹敵する三振の太刀と賞賛される手柄を立てた。同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。なお、刑部叙任に際して源姓を名乗ったという説があり、永賞寺の供養塔には「預修源朝臣」の刻銘が現在も残る。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している。天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家や諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、下巻に大谷の名も見える。この時点で奉行格に列していたことが分かる。天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、天守は秀勝時代に完成していた説もある。笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。この時、蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6,944石を加増され、このころにいわゆる「敦賀5万石」を領することとなる。文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。文禄3年(1594年)から慶長2年(1597年)ごろまで、豊臣政権の中枢から外れていた。 文禄3年には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。慶長2年9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴で出迎えた[28]。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った[29]。慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。また宇喜多家中の紛争の調停をしている。こうして西軍首脳の1人となった吉継は敦賀城へ一旦帰還し、東軍の前田利長を牽制するため越前国・加賀国における諸大名の調略を行った。その結果、丹羽長重や山口宗永、上田重安らの諸大名を味方として取り込むことに成功した。さらに吉継は偽情報を流して利長を動揺させ、8月に前田軍と戦った(浅井畷の戦い。。9月、吉継は三成の要請を受けて脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・戸田勝成・赤座直保らの諸将を率いて美濃国に進出する。そして9月15日(10月21日)、東西両軍による関ヶ原の戦いに至った。この時、吉継は関ヶ原の西南にある山中村の藤川台に大谷一族や戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。陣中にはこの他、織田信長の子・織田信吉と長次の兄弟、蜂須賀家政の重臣・高木法斎らが加わっていた。吉継は病の影響で後方にあって軍を指揮し、午前中は東軍の藤堂高虎・京極高知両隊を相手に奮戦した。正午頃、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、予てから小早川隊に備えていた直属の兵600で迎撃、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42。吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。西軍の諸将の多くが戦場を離脱したにもかかわらず自害をしたのは、吉継の実母である東殿の、最も信頼をおく北政所の、甥である秀秋に討たれることで、北政所への恩義に報いようとした結果の討死にではないかといわれている。自害した吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に埋められ(『常山紀談』)、東軍側に発見されることはなかった。異説では切腹した吉継の首を家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の従軍僧・祐玄に持たせて戦場から落とし、祐玄が米原の地に埋めたとも言われる。現地には首塚も建てられている。吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、隆貞は藤堂隊に駆け行って討ち死にした。居城敦賀城は家臣・蜂谷将監が東軍に引き渡しを行った。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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