『戦国時代の群像』140(全192回) 「細川 忠興」(1563~1645)(長岡 忠興)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。

細川4
細川3
『戦国時代の群像』140(全192回)
「細川 忠興」(1563~1645)(長岡 忠興)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。足利氏の支流・細川氏の出身である。
正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。
また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
永禄6年(156311月13日、室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれる。母は沼田光兼の女・麝香(のちの光寿院)。
義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した。永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・義昭を第15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。
忠興は信長の嫡男・信忠に仕えた。天正5年(1577)3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾る。10月に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、10月2日、信長直筆の感状を受けた。
天正6年(1578)に元服。信忠より偏諱を受け、忠興と名乗った。天正7年(1579)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。また、同年には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚する。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった。以前、忠興が信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを、信長が覚えていたためと言われる。
天正8年(1580)、父・藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は一色満信の領国)。天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。
この際に信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。
天正10年(1582)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。
幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれ、光秀は13日に山崎の戦いで敗死している。
このように本能寺の変において、速やかに剃髪して弔意をあらわし、光秀には与せずの姿勢を明確にしたため、忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄とは異なり、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった。
また忠興はこのとき、父が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となった。その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、織田政権下では実父・藤孝の同僚であった北丹後の一色満信を殺した後、一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された。
そして、北丹後の元一色方の諸城に軍勢を率いた重臣を派遣し、丹後一国の平定を成し遂げた。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに参加し、天正13年(1585)には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。
その後も天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐に従軍した。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜される。文禄元年(1592)からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。
10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌文禄2年(1593)6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。
文禄4年(1595)の秀次事件では、秀吉の甥・豊臣秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられたが松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納した。この時に金子用立てに力をかしたのが徳川家康である。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、石田三成らと対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599)には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。
同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増され、城代として重臣の松井康之・有吉立行を置いた。
これにより、都合18万石の大名となった。徳川家康からの「みかたにつけば丹後の隣国である但馬一国(10万石)を進ぜよう」という言を受け慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされた。
護衛であったはずの稲富祐直は包囲部隊に弟子が多数居た為逃げるように懇願され、ガラシャを置き去りにして逃亡した。
忠興は後に追討をかけるが家康が家来として召し抱えたため断念した。また、この事件に際して忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。
また、弟の幸隆と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後田辺城に籠城したが(田辺城の戦い)、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。
豊後国では飛び地の杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた黒田如水により石垣原の戦いで吉統は打ち破られた。
9月15日の関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘を演じ、首級を136上げたとされる。
徳川家康は重臣からの進言により但馬一国の加増は実行しなかったものの、慶長5年(1600)の論功行賞で丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増した。
豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。豊前国では前領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており、返還をめぐって筑前商人を抑留するなど関係がこじれている。
慶長7年(1602)より、小城であった小倉城を九州の要とすべく大規模改修に取り掛かる。なお、長政が移った筑前国の年貢も小早川秀秋によって持ち去られている。
その後中津城から完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。また、幸隆を竜王城の城主として同じく弟の孝之を香春岳城の城主としてさらにまた重臣の松井康之を杵築城の城主として配し、領内の守りを固めた。
忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため、叶わなかった。
臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83歳。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR