“日本名僧・高僧伝”82・蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。

蓮如宇2
蓮如1
“日本名僧・高僧伝”82・蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。
本願寺中興の祖。同宗旨[3]では、「蓮如上人」と尊称される。明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。
しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。父は第7世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。
他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。
応永22年2月25日(1415年4月13日[2])、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子として生まれる。
母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう[5][6]。幼名は布袋丸。
応永27年(1420年)、蓮如6歳の時、存如が本妻如円尼を迎える。この時点で生母は本願寺を退出しその後の行方は分かっていない。
蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。
永享3年(1431年)17歳の時中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し名を中納言兼壽と改める。その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院の門跡経覚(母方が大谷家(本願寺)の出とされ、父存如の従兄弟と推定されている)について修学。
父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。
永享6年(1434年)5月12日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。
永享8年(1436年)、祖父の第6世巧如が住持職を父に譲り、4年後の永享12年10月14日(1440年11月17日)に死去した。嘉吉2年(1442年)に第1子(長男)順如が誕生する。文安4年(1447年)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449年)父と北国で布教する。
享徳4年(1455年)11月23日、最初の夫人、如了尼が死去する。長禄元年(1457年)6月17日、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ。
留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。
なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。この裁定に対して、応玄と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。
この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。
これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。応仁2年(1468年)、北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。
応仁3年(1469年)、三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。文明2年(1470年)12月5日、第二夫人蓮祐尼が死去する。
文明3年(1471年)4月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。
7月27日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。
文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。
だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った。
文明7年(1475年)8月21日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。文明10年(1478年)1月29日、山科に坊舎の造営を開始。
8月17日、第三夫人如勝尼が死去。文明13年(1481年)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の48坊のうちの42坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。
文明14年(1482年)には真宗出雲路派毫摂寺第8世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流してきた。
文明15年(1483年)8月22日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。長享2年(1488年)5月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。
同年6月9日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。7月、蓮如は消息[7]を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489年)、75歳。寺務を5男の実如に譲り、実如が本願寺第9世となる。
明応2年(1493年)、真宗木辺派錦織寺の第7代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の40ヶ所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。
蓮如は山科南殿に隠居して「信證院」と号する。明応5年(1496年)9月、大坂石山の地に石山御坊を建立し、居所とした(後の石山本願寺)。明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。
3月25日(1499年)、山科本願寺において85歳で没した。妻の死別を4回に渡り経験し、生涯に5度の婚姻をする。子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。





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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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