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『歴史の時々変遷』(全361回)207““秀吉の九州平定“ 「秀吉の九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉

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『歴史の時々変遷』(全361回)207““秀吉の九州平定“
「秀吉の九州平定」天正14年(1586)7月から同15年(1587)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。
秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州の役」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることもある。この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。
なお、九州地方の各県・市町村の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)九州平定」の用語が比較的多く用いられるのに対し、1983年(昭和58年)刊行の吉川弘文館『国史大辞典』では「九州征伐」(今井林太郎)が使用されている。
大日本帝国陸軍参謀本部が編集した「日本戦史」においては、殆どの戦争に「役」の語を当てており、本項も「九州役」としている。「役」は、賦役などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称が生まれたものである。
開始時期について、小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日、島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている。
そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)。戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。
そのなかから、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。
豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。これを受け、関白となった。  秀吉は、天正13年(1585)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。
この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。さらに島津氏の当主島津義久は天正14年(1586)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した。
3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。
島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。
天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景などの中国の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を用いようとした。
秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関(山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている。
天正13年(1585年)2月、毛利輝元の庇護を受けて備後国の鞆(鞆幕府)に滞在していた征夷大将軍足利義昭は島津義久を九州の「太守」に任じて帰洛時の援助と大友攻めを命じており、義久はこれに応じている。島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前、豊後、および筑前への侵攻を開始した。
島津氏の軍事行動について、日本史学者池上裕子は「島津は自力で九州の殆どを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであるとしている。
天正14年(1586)3月、秀吉は島津氏の使者鎌田政近に対し、島津氏が占領した領地の殆どを大友氏に返還する国分案を提示した一方、4月には毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示した。
また、仙石秀久と長宗我部元親らを豊後に派遣して大友氏に加勢させ、8月には大友宗麟・義統の父子と立花宗茂に書状を送り、黒田孝高・宮木豊盛らの豊前出陣を伝えた。秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は1586年6月、筑前への侵攻を開始した。
6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代に到着した。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣をつとめ、これに、島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らがつづくかたちで大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。
7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。
7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した
。秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として先ず黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。
ただし、秀吉は国分執行が順調に進まない場合も想定して、輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利勢のほか讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている。
一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花山城(福岡県糟屋郡新宮町立花)、紹運次男で13歳の高橋統増(のちの立花直次)の守る宝満山城(太宰府市北谷)を攻撃目標に定めた。
7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。
立花宗茂は立花山城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。
島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった。
島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花山城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。
攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したとの報に接した。
そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。
こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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