『戦国時代の群像』135(全192回) 「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。

井伊2
井伊1
『戦国時代の群像』135(全192回)
「井伊直政」(1561~1602)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第17代または24代当主。
上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主。兜は天衝脇立朱漆塗頭形兜。徳川氏の家臣(家臣になった当時は外様)。
自身が組織した井伊の赤備えは戦国屈指の精鋭部隊として特に有名である。徳川氏きっての政治家・外交官としても名高い。
遠江国井伊谷の出身で若手の武将でありながら、『柳営秘鑑』では榊原氏や鳥居氏と並び、「三河岡崎御普代」として記載されている。
また、江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎市と滋賀県彦根市の発展の基礎を築いた人物でもある。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。
その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、「井伊直政公顕彰式」という祭典が毎年行われている。
永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。幼名は虎松。
井伊氏は先祖代々、井伊谷の国人領主であり、当時の井伊家当主である井伊直盛(直政の父の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。
父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。当時、虎松はわずか2歳であったため、新たに直親の従妹に当たる祐圓尼が井伊直虎と名乗り、井伊氏の当主となった。
虎松も今川氏に命を狙われたが、新野親矩が今川に助命して新野のもとで直政とその母は暮らす。しかし永禄7年(1564年)、新野親矩が討死し、そのまま新野の妻のもとで育てたとも、井伊直盛の正室と直政の実母が養育したともいうが、永禄11年(1568年)、甲斐の武田が今川を攻めようとした際、井伊家家老の小野但馬は今川からの命令として、直政を亡き者にして小野が井伊谷の軍勢を率いて出兵しようとしたため、直政を出家させることにして浄土寺、さらに三河鳳来寺に入った。
天正2年(1574年)、直政が父の13回忌のために龍潭寺に来た時、井伊直盛の正室(井伊直虎の母)・井伊直虎・龍潭寺の住職・直政の母が相談し、家康に仕えさせようとするが、まずは鳳来寺に帰さないために直政の母が松下源太郎に再嫁し、直政は松下家の養子になったことにしたという。
天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊氏に復することを許され虎松を万千代と改めた。さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられた。
万千代は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立てた。
天正10年(1582年)、22歳で元服し、直政と名乗る。この年、家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する(結婚は天正12年説あり)。
同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、天正壬午の乱で北条氏との講和交渉を徳川方の使者として担当し、家康が武田氏の旧領である信濃国、甲斐国を併呑すると、武田家の旧臣達を多数に付属されて一部隊を編成することとなり、士大将になった。これにより、徳川重臣の一翼を担うことになる。
その部隊は、家康の命により武田の兵法を引き継ぐもので、その代表が山県昌景の朱色の軍装(または小幡赤武者隊)を継承した井伊の赤備えという軍装であった。また、同時に井伊谷4万石に加増されたという説あり。このころから、「兵部少輔」を称する(「兵部大輔」とあるのは誤記)。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、直政は初めて赤備えの部隊を率いて武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。
また小柄な体つきで顔立ちも少年のようであったというが、赤備えを纏って兜には鬼の角のような前立物をあしらい、長槍で敵を蹴散らしていく勇猛果敢な姿は「井伊の赤鬼」と称され、諸大名から恐れられた。
天正13年(1585年)、真田攻めの撤退を指揮するために上田に派遣される。この後、井伊谷6万石に加増されたという説あり。
天正14年(1586年)10月、家康が上洛し、秀吉に臣従すると、直政の武力・政治的手腕を秀吉は高く評価し、11月23日に従五位下に叙位させ、豊臣姓を下賜したという。
天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には、徳川家中で当時筆頭家老であった酒井忠次を始め、古参の重臣達が諸大夫に留まる中、直政のみが昇殿を許される一段身分が上の公家成に該当する侍従に任官され、徳川家中で最も高い格式の重臣となった。
この時に「井侍従藤原直政」という署名が見られ、豊臣姓ではなく藤原姓を称した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。
同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、直政の誘いや働きかけにより、京極高次、竹中重門、加藤貞泰、稲葉貞通、関一政、相良頼房、犬童頼兄らを西軍から東軍に取り込んだ。
先陣が福島正則と決まっていたにもかかわらず、直政と松平忠吉の抜け駆けによって戦闘が開始されたとされているが、笠谷和比古によると実際は抜け駆け行為は霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、戦闘開始はそれに続く福島正則の宇喜多隊に向けた銃撃戦に求めるべきとされている。
家康から諸将に七月七日付で出されている軍法の第四条で抜け駆けを厳禁している。そもそも合戦開始時においても、合戦後においても福島から井伊に対して何らの抗議めいた態度は示されておらず、井伊の開戦時における行為は、かなり抑制されたものであって、福島の名誉を傷つけないように配慮されたものと推測されている。
その後の直政と忠吉の行動に関しては、宇喜多秀家・小西行長の軍と戦った、敵中突破退却を図ろうとする島津義弘の軍と戦ったと言う2説があるが、最近では島津軍と戦ったという説が有力であるとされている。この戦いで義弘の甥である島津豊久を討ち取った。
しかし、退却する島津軍を百余騎率いて猛追し、遂に義弘の目前まで迫り、いざ義弘討ち取りの命を下した際に、島津軍の柏木源藤が撃った銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し落馬してしまう。
あまりの猛追振りに護衛も兼ねる配下が追い付けず、単騎駆けのような状態であったという。関ヶ原の戦いで大怪我を負ったにも関わらず、精力的に戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和などに務めた。
家康への全面的な忠節を誓わせた輝元からは、直政の取り成し、特に、周防・長門の二カ国が安堵された事に大いに感謝され、今後の「御指南」役を請う起請文が直政に送られた。
慶長7年(1602年)2月1日に、おそらくは長年の家康に対する奉公による過労と関ヶ原で受けた鉄砲傷が癒えないまま、 破傷風が元で]死去した。
直政が死去した当初、地元の民衆達の間で三成の怨霊が城下を彷徨っているという噂が広まって、このことが家康の耳に入り、家康の命によって、佐和山城を始めとする三成に関係する物の全てを廃した。[
その後、彦根城の築城が開始されると同時に佐和山藩(18万石)は廃藩となった。代わってこの地には新たに彦根藩(30万石)が置かれた。それ以来、この地は明治時代になるまで井伊氏の藩として大いに栄えることとなった。
家康は、西国の抑えと、非常時に朝廷を守るため、京都に近い彦根に徳川最強の軍団である井伊家を配したと伝えられ、これを見ても徳川家から強い信頼を受けていたと考えられる。
家康は、徳川最強軍団である井伊家を率いる当主を誰にするかは重要な問題であったことから、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に出兵するに際し、直政の跡継ぎとして井伊家の軍団を率いる大将には、それまで名目上の井伊家当主であった直政長男の井伊直継には能力がなかったことから(表向きは病弱とする)、次男である井伊直孝を指名した。遺体はその遺意により、当時芹川の三角州となっていた場所で荼毘に付された。その跡地に長松院を創建した。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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