『戦国時代の群像』134(全192回) 前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名

前田1
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『戦国時代の群像』134(全192回)
前田利長(1562~1614)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
加賀藩初代藩主。加賀前田家2代。藩祖である前田利家の長男(嫡男)。母は高畠直吉の娘のまつ(芳春院)。正室は織田信長の娘の永姫(玉泉院)。初名は利勝、天正17年(1589)頃に利長と改名する。
若年より織田信長・豊臣秀吉旗下の指揮官として転戦した。秀吉死後から江戸幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎を築いた。
永禄5年(1562)1月12日、織田氏の家臣・前田利家の長男として尾張国荒子城(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。幼名は犬千代。初めは安土城で織田信長に仕える。
天正9年(1581年)、父・利家の旧領越前国府中の一部を与えられ、信長の娘・永姫を室に迎える。天正10年(1582年)の本能寺の変は、永姫とともに上洛中の近江国瀬田(現在の前田3
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滋賀県大津市東部)で聞き、当時7歳の永姫を前田の本領・尾張国荒子へ逃がし匿わせ、自身は織田信雄の軍に加わったとも、蒲生賢秀と合流して日野城に立て籠もったともいわれる。
信長死後は父・利家と共に柴田勝家に与する。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにも参加し、戦後は父と共に越前府中城へ撤退する。
父が羽柴秀吉に恭順し、秀吉と共に勝家の本拠・北ノ庄城を攻める折り、秀吉は利長母のまつに「孫四郎は置いていく」と利長を残しておこうとしたが、まつはそれを断り、利長を従軍させた。利長はわずか2騎の供回りで北ノ庄城攻めに加わったと伝わる。
勝家の自刃後は秀吉に仕えた。天正13年(1585)、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。秀吉の配下として九州平定、小田原征伐などに従軍参加し、各地を転戦して功績を立てた。
特に九州平定戦では蒲生氏郷と共に岩石城を落とす活躍をしている。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜された。慶長3年(1598)には利家より前田家家督と加賀の金沢領26万7,000石を譲られる。父の利家は豊臣政権において五大老の一人として徳川家康に対抗する位置にあった。
慶長4年(1599)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。
利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、同年8月、家康の勧めにより金沢へ帰国した。翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。
この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。
しかし豊臣家がこれを断ったため、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。
この際に浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座している。慶長5年(1600)、利長は金沢を出陣するが、この金沢出陣についてはその解釈が二説あり、上杉征伐に出陣する際に背後の丹羽長重を討とうとしたとする説、石田方の挙兵に対抗するための出陣とする説である。
いずれにせよ、家康出陣中に石田三成らが五大老の一人・毛利輝元を擁立して挙兵すると、利長は大聖寺城(石川県加賀市)を攻略し、越前国まで平定。金沢への帰路の8月8日には小松城(石川県小松市)主・丹羽長重軍に背後を襲われ、からくも撃退した(浅井畷の戦い)。9月11日、弟・前田利政の軍務放棄に悩まされながらも再び西上。
18日には長重と和議を結ぶ。関ヶ原の戦い後、西軍に与した弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する日本最大の藩・加賀藩が成立した。
利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現した。また家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。
慶長14年(1609)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。城と城下町の整備に努めるも、梅毒による腫れ物が悪化して病に倒れた。隠居領から10万石を本藩へ返納するなど自らの政治的存在感を薄くしていく。
慶長18年(1613)には豊臣家より織田頼長が訪れ勧誘を受けるが、利長はこれを拒否した。慶長19年(1614)、病はますます重くなり京都隠棲、及び高岡城の破却などを幕府に願って許されるが、5月20日に高岡城で病死。服毒自殺ともされる(『懐恵夜話』)。享年53。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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