史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『戦国時代の群像』131(全192回)「直江兼続」(1560~1619)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」立物は「愛字に端雲の立物

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『戦国時代の群像』131(全192回)「直江兼続」(1560~1619)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」立物は「愛字に端雲の立物」[1]。以下のように諸説あるが、これらを立証する信憑性のある史料は確認されていない。越後上田庄(うえだのしょう)で生まれた。通説では、永禄3年(1560年)に樋口兼豊(木曾義仲の重臣・今井兼平の兄弟である樋口兼光の子孫と言われている)の長男として、坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、現在の南魚沼郡湯沢町に樋口姓が多いことから湯沢で生まれたとする説がある。父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったといわれている。天正6年(1578年)謙信急死後に起こった上杉家の後継者争い「御館の乱」が収束し、戦後処理が行われる天正8年(1580年)から、景勝への取次役など側近としての活動が資料で確認され、同年8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者を務めている。天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、毛利秀広に殺害される事件が起きる。兼続は景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子(船にとっては再婚)となり、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、上杉家は兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。天正11年(1583年)には山城守を称する[4]。天正12年(1584年)末から狩野秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の上杉家臣たちは景勝を「殿様」「上様」、兼続を「旦那」と敬称し[5]、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日(1586年8月7日)、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが、兼続も従五位下に叙せられる。新発田重家の乱では重要な戦略地・新潟を巡り激しい攻防が続いていたが、天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北する。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていた当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など、現在の新潟平野の基礎を造り、着々と新発田勢を追い詰め、天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟湊の経済利権を失った新発田重家は急速に弱体化した。天正15年10月23日、兼続は藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、10月28日には新発田城も落城し、乱は収束した[7]。慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するようになる。景勝・兼続主従は、前領主・蒲生家の居城若松城に代わり、新しい(神指城)の築城を始めていた。戦のためではなく会津の町を新たに作り直す狙いがあったとされるが、親徳川で上杉家を出奔した藤田信吉や堀秀治が上杉家謀反を訴えると、以前城の普請を許可したはずの家康は上杉家を詰問する。このとき家康を激怒させ、会津遠征を決意させるきっかけとなった返書直江状の文面は偽書、もしくは、偽文書ではないが、後世に大幅に改竄された可能性が宮本義己により指摘されているものの家康の上杉征伐を諌止した豊臣奉行衆の書状には「今度、直江所行、相届かざる儀、ご立腹ご尤もに存じ候」「田舎者に御座候間、不調法故」などとあることから、家康を激怒させた兼続の書状が存在したことは事実のようである。奉行衆の諌止もあってか直江状のあとも上洛が計画されたが、讒言の真偽の究明が拒否されたため、景勝は上洛拒否を決断。関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。兼続は越後で一揆を画策するなど家康率いる東軍を迎撃する戦略を練っていたが、三成挙兵のため、家康率いる東軍の主力は上杉攻めを中止。兼続は東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人を率いて侵攻した。最上義光と上杉家は、庄内地方を巡って激しく争った経緯もあり、関係は悪かった。さらに、上杉家から見ると自領は最上領により分断されており、最上家から見ると自領が上杉領に囲まれていた。当初、東北の東軍諸勢力は最上領に集結し、上杉領に圧力を加えていたが、家康が引き返すと諸大名も自領に兵を引き、最上領の東軍兵力は激減した。義光は危機感を覚え、上杉家へ和議の使者を送りながらも、東軍諸侯に呼びかけ、先制攻撃を図ろうとしていた。義光の動きを察知した兼続は、機先を制した。義光は戦力集中のため一部の支城の放棄を命じたが、畑谷城を守る江口五兵衛などはこの命令を拒否して籠城、上杉軍は激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく志村光安が守る長谷堂城と、里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され、大混乱の末に多くの武将を失うなど、守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安、鮭延秀綱ら1千名の守備兵が頑強に抵抗し、上泉泰綱を討ち取られるなど多数の被害を出した。大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった(長谷堂城の戦い)。なお、兼続は伊達・最上を従えて関東入りする計画であったことが書状から分かっており、最上攻めは力攻めではなく大軍により最上を屈服させるのが目的であり、撤退も関ヶ原の敗報を受けたのではなく、上方の情勢を入手して反撃が激しくなった伊達・最上の動きに疑念を持った兼続が独自の判断で決断したとの説もある。しかし結果として、上杉軍の最上侵攻は山形の攻略に失敗し、反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。景勝・兼続主従は背後を脅かす最上・伊達を屈服させ、関東へ侵攻する構想を抱いていたが、関ヶ原本戦の決着が一日でついてしまったこともあり、実現できないまま降伏へ方針を転換することとなる。慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を赦された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)重光に改名する。兼続(=重光)は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた。米沢城下を流れる最上川上流には3キロメートルにわたって巨石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの谷地川原堤防は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれている。松川の架橋工事の際に、土中から多数の巨石が出てきたことが判明している。また新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めた。また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。上杉家と徳川家の融和を図るため、徳川家重臣本多正信の次男・政重を兼続の娘の婿養子にして交流を持ち、慶長14年(1609年)にはその正信の取り成しで三分の一にあたる10万石分の軍役が免除されるなど、上杉家に大きく貢献している。のちに政重との養子縁組が解消された後も本多家との交流は続いた。慶長19年(1614年)正月には松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の指揮の下に、主君景勝とともに天下普請を行なった。同年の大坂の役においても徳川方として参戦し、鴫野の戦いなどで武功を挙げた。元和5年(1619年)5月から9月にかけて景勝が徳川秀忠に従って上洛した際、景勝は兼続に命じ、将士に法令を頒布した[27]。そして12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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