『戦国時代の群像』130(全192回)「戸田勝成」(?~1600)とだかつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は半右衛門、武蔵守。名は重政・勝重ともいう。出自不明。兄に戸田勝隆(三郎四郎)がいる。はじめ丹羽長秀・長重父子に仕え

戸田2
戸田4
『戦国時代の群像』130(全192回)「戸田勝成」(?~1600)とだかつしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。通称は半右衛門、武蔵守。名は重政・勝重ともいう。出自不明。兄に戸田勝隆(三郎四郎)がいる。はじめ丹羽長秀・長重父子に仕えたが、丹羽家に内紛があり、それを機に豊臣秀吉の家臣となったとされる。一方で、兄・勝隆同様に秀吉古参の直臣で、その家人であったという異説もある。越前国足羽郡安居城主に封ぜられ1万石を領した。秀吉の九州征伐、小田原征伐と歴戦し、朝鮮出兵の折は文禄の役において肥前名護屋に駐屯した。また、伏見城の普請を命ぜられ、その功で後の慶長4年(1599年)の秀吉の死後に1万石を加増され、併せて2万石を領した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては石田三成に共鳴して西軍方に付いた。初め北国口を守備していたが、東軍が迫ると、大谷吉継の配下の北陸衆の1つとして美濃方面へと移動した。本戦においては平塚為広らと大谷隊の先鋒として奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋が離反して攻撃してきたのに続き、同じ北陸衆の脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠の4隊が寝返って側面から攻撃してきたために、挟撃を受けて壊滅した。潰走する中で、勝成は織田有楽斎の長男・長孝の東軍部隊に捕捉され、混戦の中で長孝の槍を頭部に受けて討たれた。これが長孝ではなく津田信成であったとする異説もある。なお、有楽・信成は共に勝成の友人であった。『武功雑記』によれば、勝成は東軍の諸大名にも親交のある者が多く、その死を聞いて皆涙したという。関ヶ原では、嫡男内記(一説に重典)も同じく討死している。重典の妻は村上頼勝の娘で、藤五郎という子供がいた。この藤五郎と同一人かどうかは不明だが、内記の子は村上頼勝の養子となり、村上忠勝と称し村上家を継いだと「武家事紀」にある。ただし諸説あり。関ヶ原の戦いで織田長孝(とその父の織田長益(有楽斎))は勝成を討ち取る功を挙げた。徳川家康の前での論功行賞の際、長孝が勝成を討ち取った際に使用した槍が披露されたが、家康家臣が誤って槍を取り落とし、家康は指を負傷した。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽は「村正」の作であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いた。この話は、妖刀などと呼ばれ、徳川家に災いを成すと巷談で語られる村正伝説の数あるうちのひとつとなっている。



スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

最新コメント
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR