史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時変変遷』(全361回)201“中国大返し”「中国大返し」または備中大返しは、天正10年6月(西暦1582)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後

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『歴史の時変変遷』(全361回)201“中国大返し”「中国大返し」または備中大返しは、天正10年6月(西暦1582)、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のこと。備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)までの約200 km を踏破した、日本史上屈指の大強行軍として知られる。この行軍の後、秀吉は摂津・山城国境付近の山崎の戦いにおいて明智光秀の軍を撃破した。主君織田信長より中国攻めの総司令官に任じられていた羽柴秀吉は天正10年(1582)3月、播磨姫路城(兵庫県姫路市)より備前に入り、3月17日に常山城(岡山市南区)を攻め、4月中旬には備前岡山城(当時は石山城)の宇喜多秀家の軍勢と合流、総勢3万の兵力となって、備中日畑城(日幡城、岡山県倉敷市)、備前冠山城(岡山市北区)、備前庭瀬城(岡山市北区)、備前加茂城(岡山市北区)など、備前・備中における毛利方の諸城を陥落させていった。一方で秀吉は動揺する毛利水軍への調略もおこない、4月14日には毛利水軍に帰属していた伊予の来島氏と村上(能島)氏を帰順させている。備中高松城(岡山市北区)の城主清水宗治は、織田・毛利両陣営双方から引き抜きを受けたが、織田氏からの誘いを断り毛利氏に留まった。秀吉は、僅か3,000の兵員しか持たない高松城を攻めるのに、城を大軍で包囲して一気に殲滅する作戦を採った。しかし、秀吉は苦戦を余儀なくされた。そこで、秀吉は主君信長に援軍を要請し、信長もまた家臣明智光秀を派遣することを伝えたが、同時に寸暇おしまず高松城攻略に専心するよう秀吉に命じた。勇将清水宗治の守る高松城を攻めあぐねた秀吉は、5月7日、水攻めにすることを決した。高松城は、三方が深い沼、一方が広い水堀となっており、要害であった。このとき水攻めを発案したのは、一説には軍師黒田孝高(如水)ではないかともいわれている。城の周囲に築かれた堤防は、5月8日に蜂須賀正勝を奉行として造成工事が始まり、19日に終えた。作戦は、堤防内に城の西側を南流する足守川の流れを引き込もうというものであった。高松城の水攻めは「空前」の「奇策」であり、秀吉の特異な戦法として世に知られる。秀吉は無益な人的損耗を避けるため、綿密な地勢研究の結果に基づいてこの策に決定、兵や人民に高額な経済的報酬を与えることによって、全長4 km弱におよぶ堤防をわずか12日間で築成したのである。こうして秀吉は、宗治救援に駆けつけた吉川元春・小早川隆景ら毛利軍主力と全面的に対決することとなったが、折からの梅雨で城の周囲は浸水し、高松城は「陸の孤島」となって毛利軍は手が出せない状況となった。秀吉はこの時、毛利の陣営に「近く総大将の織田信長公が大軍を率いて秀吉の応援に駆けつけるらしい」という風説を流したともいわれている。信長の親征となれば、武田勝頼のように、一族悉く滅ぼされ獄門首になりかねず、毛利軍は早期和睦を望んでいた。明智光秀は甲州征伐から帰還した後、5月15日に信長の命により長年武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を拝命した。しかし、同日に秀吉から信長にあてた中国攻めの援軍要請の書状が届き、備中猿掛城(岡山県倉敷市・矢掛町)に本陣を置く毛利輝元が高松城親征に乗り出すことも報じたため、17日、光秀は接待役を中途解任され、すぐに安土城(滋賀県近江八幡市安土町)から居城の近江坂本城(滋賀県大津市)へ立ち帰って秀吉援護の出陣準備に取りかかるよう命ぜられた。光秀は安土から坂本へ、さらに丹波亀山城(京都府亀岡市)に移って出陣の準備を進め、5月27日、丹波・山城国境の愛宕山威徳山(京都市右京区)に参籠して戦勝祈願の連歌の会(愛宕百韻)を催した。光秀はその時「時は今 天が下知る 五月哉」の発句を詠んだことで知られている。一方の信長は5月29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓など70名ないし80名のわずかな供回りをしたがえ、留守を蒲生賢秀に託して安土城を発ち、同日、京の西洞院四条坊門の本能寺(京都市中京区)に入って、ここで軍勢の集結を待った。信長の嫡男で美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)の城主織田信忠は同時に京都室町薬師寺町の妙覚寺(京都市上京区)に入った。翌6月1日、信長は本能寺で博多の豪商島井宗室らをまねいて茶会を開いた。1日夕刻、光秀は1万3,000人の手勢を率いて亀山城を出発し京に向かった。一般には翌未明に老ノ坂(京都市西京区)を通り、桂川を渡ったところで、光秀が周囲に敵が本能寺にあることを伝えたとされる。天正10年6月2日の早朝、本能寺は光秀軍によって包囲された。馬の嘶きや物音に目覚めた信長が森成利(蘭丸)にたずねて様子をうかがわせた。小姓衆は当初使用人たちの喧嘩と思っていたという。成利(蘭丸)は見聞の結果、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており、多くの旗が見えた。旗に描かれているのは桔梗の紋である」と報告、信長は謀反の首謀者が明智光秀であったことを悟った。信長は「是非に及ばず」と語り、弓を手に持って応戦したが、弦が切れたため、次には槍を手に取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵により肘に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念し、女たちに逃亡するよう指示して殿中の奥にこもり、成利(蘭丸)に火を放たせ、切腹して自らの命を絶った。京都所司代として京の行政を担当していた村井貞勝の屋敷は本能寺門外にあった。貞勝より光秀謀反の報を受けた妙覚寺の信忠は父の救援のため本能寺に向かおうとしたが、既に大勢は決したとして周囲に制止された。明智軍の包囲は十分でなく、信忠と共にあった叔父の織田長益(有楽斎)と前田玄以は逃亡に成功している。しかし信忠は、明智軍による検問があるだろうと判断して逃亡を諦め、貞勝らと共に兵500を率いて守備に向かない妙覚寺から東隣の二条御所(二条新造御所)へ移って防戦した。信忠は、二条御所にいた誠仁親王(正親町天皇第五皇子)を連歌師里村紹巴が町屋から用意した荷輿に乗せて内裏へ避難させ、明智軍相手に奮戦し、自ら何箇所もの傷を負いながら兵2名を斬り倒し、少人数ながらも抵抗して明智軍を3度退却させている。時間の経過と共に、京に別泊していた馬廻たちも少しずつ駆けつけてきたため、明智軍は最終手段として隣接する近衛前久邸の屋根から内側の見える二条御所を銃や矢で狙い打った。これにより信忠の近臣は倒れ、信忠もそれ以上の抗戦を断念して自刃した。討死したのは村井貞勝、菅屋長頼、猪子高就ら多数にのぼった。戦死者の遺体は、京都阿弥陀寺(京都市上京区)の開基清玉が集め葬送したと伝えられる。光秀は、変後は信長残党の捜索追捕と京の治安維持に当たったが、山岡景隆・景佐の兄弟が守っていた瀬田城(大津市)では、2日、山岡兄弟が光秀の誘いを拒絶し、瀬田城と瀬田の唐橋を焼き落として抵抗の構えを見せた後、甲賀方面に避難した。2日夕刻、光秀軍は橋詰めに足がかりの塁を築いて坂本城に帰り、諸方に協力要請の書状を送った。この時、信長の部下であった美濃野口城(岐阜県各務原市)の城主西尾光教に対して、味方となって美濃大垣城(岐阜県大垣市)を攻め取るよう指令しているが、同様の書状は各所に送られたものと推定される[17]。光秀は3日・4日と坂本城にいて、近江や美濃の国衆の誘降についやした。3日には武田元明・京極高次らを近江に派兵して、4日のうちには近江の大半を制圧した。ただし、山岡兄弟の件もそうであるが、安土城留守居役であった蒲生賢秀・賦秀(氏郷)父子もまた、城内にいた信長の妻妾をみずからの居城日野城(滋賀県蒲生郡日野町)に避難させ、光秀に対して不服従の態度を明らかにするなど、当初から必ずしも光秀の思惑通りには進まなかった。このとき、信長の妻妾は安土城に火をかけ、城内の金銀財宝を移すよう主張したが、賢秀はその申し出の両方を断ったという。一方、大和の筒井順慶は、信長から中国攻めを命じられたので2日に郡山城(奈良県大和郡山市)を発し京都へ向かったが、途中本能寺の変報を聞き一旦郡山に帰り、翌3日には兵を出して大安寺・辰市・東九条・法華寺(いずれも奈良市)の周辺を警備して治安維持につとめた。この時、摂津にあった信長の三男・神戸信孝と丹羽長秀が兵員不足に窮したため与力を求められたが、これには応じず、4日に山城槇島城(京都府宇治市)の城主井戸良弘と順慶配下の一部の兵は山城を経て5日には光秀軍と合流して近江に入った。光秀は、5日には瀬田橋を復旧させて安土城を攻撃してこれを奪取し、信長の残した金銀財宝を家臣や新しく従属した将兵に分与した。さらに秀吉の本拠長浜城(滋賀県長浜市)や丹羽長秀の本拠だった佐和山城(滋賀県彦根市)、山本山城(長浜市)なども占領させた。なお、長浜城は京極高次・阿閉貞征により開城されて、光秀はここに斎藤利三を入れた。佐和山城には山崎片家が入った。光秀は7日まで安土城にいた。
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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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