史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『戦国時代の群像』128(全192回)「石田三成」(1560~1600)安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦

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少し大きい文字『戦国時代の群像』128(全192回)「石田三成」(1560~1600)安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている。永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いたとき、これに従軍した。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。文禄3年(1594年)、島津氏・佐竹氏の領国を奉行として検地する。文禄4年(1595年)、秀吉の命により、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち、近江7万石が三成の代官地になる[注釈 2]。また、同年に畿内と東国を結ぶ要衝として、軍事的にも政治的にも、重要な拠点である近江佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられた。慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。明の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこの時に捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りを宥めて信徒達が処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると国内で後方支援に活躍した。その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯であり、処分を受けた加藤清正、黒田長政、蜂須賀家政らは処分は秀吉が三成・長堯の意見を容れたものと考え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康は、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死すると、その直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、加藤嘉明の七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後、七将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。なおこの事件時、「三成が敵である家康に助けを求め、単身で家康の向島の屋敷に入り難を逃れた」という逸話があるが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の『日本戦史・関原役』などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない。慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図ろうとしたが、宮本義己によると、これは俗説で提携の微証は見当らないとする。決起後の三成が、真田氏に発給した書状のうち、七月晦日付の真田昌幸充書状に、「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と頼んでおり、七月晦日の段階でも、上杉氏との確かな交信ルートを持ち合わせていなかったので、景勝と三成の具体的な謀議や提携は、なかったものと見ておきたいと分析している。その後、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。7月12日、兄・正澄を奉行として近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名(鍋島勝茂や前田茂勝ら)の東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や芦間に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。


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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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