史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)199“小牧長久手の戦い”「小牧・長久手の戦い」天正12年(1584)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城

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『歴史の時々変遷』(全361回)199“小牧長久手の戦い”「小牧・長久手の戦い」天正12年(1584)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、最近では「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、織田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を擁立して、信長の三男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の領する越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。天正11年に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584)に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。天正12年3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。3月15日、池田恒興と協同せんとする森長可は兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という。敵襲の心配がなくなった家康は3月18日、小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する。家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は全くの膠着状態に陥った。両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥をそぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した。各隊の主な編組は以下の通り:、第一隊 - 池田恒興 - 兵6,000人・第二隊 - 森長可 - 兵3,000人・第三隊 - 堀秀政 - 兵3,000人、第四隊 - 羽柴秀次 - 兵8,000人家康は4月7日に羽柴秀次勢が篠木(春日井市)・上条城の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城(名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。白山林の戦い*岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、9日4時35分ごろ後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢に襲撃された。この奇襲によって秀次勢は成す術なくほぼ潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で辛くも逃げ遂せた。また、目付として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした。桧ヶ根の戦い*羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも500人ともいう[21]。織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断、池田と森の援軍要請を無視して後退した。長久手の戦い*岩崎城を占領した池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は引き返しはじめた。そのころ、家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った[22]。4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。戦闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、森長可が狙撃されて討死した辺りから一気に徳川軍有利となった。池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。やがて恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という。秀吉は9日に陽動として小牧山へ攻撃をしかけている。午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は2万人の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行した。しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害される。夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還した。秀吉は翌日この報を聞き、楽田に退いた。北伊勢・美濃方面の戦い*長久手の戦いが行われていた4月8日、羽柴秀長が松ヶ島城を開城させ、城主の滝川雄利は浜田城(三重県四日市市)に移って籠城する。また、森長可の死後に手薄となった東濃では、三河から徳川勢が侵攻し、4月17日には徳川家に居た遠山利景が旧領であった明知城を奪還している。その後、羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍で囲み、水攻めなどで順次攻略したが、信雄・家康は後詰要請に答えず開城するように勧告し、6月10日に開城している(竹ヶ鼻城の水攻め)。秀吉は6月13日に岐阜城に立ち寄り、6月28日に大坂城に戻った。これを受けて家康も小牧山城を酒井忠次に任せ、清州城に移っている。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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