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『歴史の時々変遷』(全361回)198“天正壬午の乱”「天正壬午の乱」天正10年(1582)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の

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『歴史の時々変遷』(全361回)198“天正壬午の乱”「天正壬午の乱」天正10年(1582)に甲斐・信濃・上野で繰り広げられた戦いである。大まかには徳川家康と北条氏直の戦いとして説明されるが、上杉景勝の他、在郷の諸勢力(特に木曾義昌や真田昌幸)も加わっている広い範囲の戦役であった。「壬午」は天正10年の干支で、同時代の文書では「甲斐一乱」と呼称され、近世期には「壬午の役」「壬午ノ合戦」と呼ばれた。本能寺の変によって空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った出来事である。さらに真田昌幸を始めとする武田の遺臣や、地元の国人衆が復帰や勢力拡大を画策したため、情勢がより複雑化した。大大名同士による争いは、上杉と北条の講和、及び徳川と北条の講和によって終結を迎え、景勝が信濃北部4郡を支配、甲斐と信濃は家康の切り取り次第、上野は氏直の切り取り次第という形で決着する。家康は信濃、氏直は上野の平定を進めたが、最終的には沼田領帰属問題に端を発する真田の徳川から上杉への寝返りが発生し、真田が独立勢力として信濃国小県郡及び上野国吾妻郡・同国利根郡を支配した。結果として、上杉は北部4郡の支配を維持、徳川は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域、北条は上野南部を獲得した。真田領の問題は後の上田合戦に発展していく。この戦によって家康は(先の駿河を含め)数ヶ月で5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承し天下人になりつつある豊臣秀吉と対峙していくこととなる。また、東国を差配する3氏の関係(徳川と北条の同盟、徳川と上杉の敵対関係)も、豊臣政権に対する東国情勢に影響を与えていくこととなる。天正10年3月に甲州征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、甲斐から信濃、駿河、上野に及んだその領地は織田政権下に組み込まれた。信長は国掟を定め、武田遺領を以下のように家臣に分与する。関東の北条氏は甲州征伐に協調したものの、遺領を得ることは一切できず、後述する歴史経緯からみるとむしろ上野を追い出される形となった。甲州征伐と前後して、織田氏は御館の乱の混乱が続く上杉氏の攻略も進めていた。新発田重家が織田と通じて造反し、柴田勝家が越中まで侵攻。3月11日からは魚津城の攻囲も始まり(魚津城の戦い)、信濃が織田領になった後は南から森長可の侵攻も計画されていた。5月末には、本拠・春日山城に森の軍勢が迫りつつあって上杉景勝は魚津城に後詰することも適わなくなる。そして6月3日、魚津城が陥落した。上野国と信濃国は、歴史的に越後の上杉氏、関東の後北条氏、甲斐の武田氏がその所領を巡って争ってきた。これら上野・信濃は、先述のように甲州征伐によってそのほぼ全域が織田氏の物となった。しかし、3ヶ月後の本能寺の変によって空白化する。織田氏による統治期間が極めて短く、地元の有力者を掌握しきれていなかったことが、天正壬午の乱及び以後の出来事に大きな影響を与えていくことになる。上野は、元は関東管領山内上杉家の所領であったが、天文15年(1546年)の河越夜戦を経て天文21年(1552年)に上杉憲政が上野を脱出、北条氏康の領地となる。その後、憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に関東管領を譲り、謙信は関東管領としてたびたび関東方面へ侵攻するようになる。上野は越後と関東を結ぶ重要地であり、上野(特に交通路であった沼田)を巡って謙信と氏康・氏政父子は激しく争った。越相同盟によって一時氏政が謙信の上野領有を承認したこともあったが、基本的に謙信の死まで上野を巡る両者の争いは続いた。武田信玄もまた上野西部にたびたび侵攻しており、永禄6年(1563年)頃に岩櫃城を攻略して吾妻郡を治め、永禄9年(1566年)には箕輪城を攻略して箕輪城以西を領国化した。謙信の死後に上杉家で御館の乱が起きると、天正7年(1579年)に謙信の甥・景勝は信玄の子・武田勝頼と同盟を結び(甲越同盟)、同時に甲相同盟が破棄され、上野は武田と北条による争いの場として移り変わる。また、景勝に上野侵攻を承認された勝頼は、家臣の真田昌幸に命令して沼田攻略を開始し、北条方であった沼田城を攻略させ、上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。甲州征伐後、上野全域は滝川一益の所領となるも、昌幸は滝川の下につくことでその勢力範囲を維持した。信濃も関東管領である山内上杉家の力が弱まると、武田氏が手を伸ばし始める。信玄は家督相続後積極的に信濃に侵攻するようになり、甲斐の北にあたる佐久郡・小県郡の他、同盟関係にあった諏訪郡にも侵攻し、北部を除いて信濃を平定する。信濃を追いだされた村上義清や北部の豪族など信濃の大名は、上野と同様に謙信を頼り、謙信はこれを大義名分として信濃へ南下する。両者は北部4郡の入り口にあたり、4郡を支配するために重要な川中島や海津城で何度も対峙した。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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