『歴史の時々変遷』(全361回)197“御館の乱”「御館の乱」天正6年(1578)3月13日の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)

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『歴史の時々変遷』(全361回)197“御館の乱”「御館の乱」天正6年(1578)3月13日の上杉謙信急死後、その家督をめぐって謙信の養子である上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)との間で起こった越後の内乱、お家騒動。御館とは、謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時にその居館として建設した関東管領館のことで、春日山城下に設けられ、後に謙信も政庁として使用した。現在の直江津駅近くに当時の御館の跡が御館公園として残っている。相模国の後北条氏(以下、単に北条氏)は甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と三国同盟を結んだ。北条氏康は信濃侵攻を行う北信地域において上杉方と抗争(川中島の戦い)を行っていた武田信玄と連携して北関東に侵攻し、上杉謙信の関東出兵(小田原城の戦い)をも退け、上杉氏との抗争を優位にすすめた。永禄11年(1568)に、弱体化した今川氏を見限った武田氏が駿河今川領国への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、北条氏は今川氏を支援し武田氏と敵対、翌永禄12年には、上杉氏と和睦して武田氏に対抗した(越相同盟)。武田氏が将軍足利義昭とそれを擁立していた織田信長を通じて上杉氏との和睦を図る一方(甲越和与)、北条氏では越相同盟の継続を模索し元亀元年(1570)には北条氏康の子息(異説あり)三郎が謙信の養子に迎えられ、謙信の初名を与えられて上杉景虎と名乗り、同盟が強化される。だが、上杉氏と北条氏は関係が悪化し、元亀2年(1571年)10月には北条氏康が死去、その子の北条氏政は武田氏と和睦し、甲相同盟が復活する。しかし、景虎は上杉氏の元に引き続きとどまった。天正6年(1578)3月9日、上杉謙信は春日山城の厠で「不慮の虫気」のため倒れ、3月13日に意識が戻らぬまま死亡した。上杉家の後継に関する謙信の意志は不明であるが、景虎が謙信に代わって雲門寺など寺社への新年祝賀の礼状を送っていたことや、軍役を課されないなどの優遇措置をとられていた点などから、景虎が後継者であったという説がある。北条氏を実家とする景虎は上杉家と北条家の取次に重要な役割を担っていたことが明らかであり、翌年初頭には謙信の寵臣である河田長親から送られた陣中見舞いへの礼状が残存するほか、同盟以来景虎とは非常に縁の深い柿崎家の文書には少人数の動員ながらも松木加賀守らに軍役を命じた書状も残っている。しかし一方で、景虎に軍役が課されなかったことの根拠とされる天正3年(1575)の上杉家軍役帳は必ずしも上杉氏の全軍事力を網羅したものではなく、関東その他の地域の在番衆などを除く本国越後の春日山城周辺から動員が可能な諸士にのみ記載が限られていることから、景虎の名がないのは作成時期と地域における軍事力・秩序区分から除外されたためであり、したがって軍役の記載がないことが優遇措置ひいては景虎後継者説の論拠には直結しないという見解もある。この軍役帳の記載からは、謙信が景勝を他の上杉一門衆(山浦・上条・古志など)をしのぐ最上位に位置づけていたこと、家中最大級の兵力を担わせていたこと(最大の兵力を擁したのは山吉豊守である。天正5年(1577年)の豊守死後、その家臣団の一部は景勝直属部隊である五十騎組に配され、景勝の権力基盤である上田衆の中に組み込まれる)、また家臣たちの景勝に対する呼称が謙信への尊称である「御実城様」と類似した「御中城様」であったことも示唆され、他の一門衆が「十郎殿」などと通称や姓に「殿」付けで記されている(山浦国清と上条政繁は謙信の養子ではあるが、分家の当主となった)のに比し、謙信と同じく「御」「居住場所(中城)」「様」で敬称されている景勝は謙信の養子のなかでも高い地位を与えられていたことがわかる。また、謙信が上田長尾家当主として長尾顕景を名乗っていた景勝に天正3年(1575年)、上杉景勝の名を与え弾正少弼を譲っていることから、晩年の謙信が景勝の更なる地位の補強を図っていたという見方もある。謙信が没する直前の天正5年(1577)12月23日奥書をもつ「上杉家家中名字尽」には「一手役」の軍役を務める有力武将81名の名が記載されているが、この中に景勝の名は記載されておらず、この頃には上杉家家臣・上田長尾家当主としてではなく、謙信の子として扱われている事が伺える。上記の官途の問題も影響し、謙信は関東管領職を景虎に、越後国主を景勝にそれぞれ継がせるつもりであったと論ずる研究者もいるが、いずれにせよ現段階の研究では、景虎の関東管領・景勝の越後守護相続による分権説、景虎と景勝のどちらかを唯一の正統な後継者と目する説のどれも通説とは言い難い。1578(天正6年)、景勝と景虎の後継争いは謙信の死の直後から小規模ながら勃発し、早くも翌14日には景虎派と目されていた柿崎晴家が景勝方に暗殺されたと言われる。しかし晴家の死亡時期や死因には諸説あり、断定されているわけではない。また一級史料による正確な日付は不明であるが、景勝はその後いち早く春日山城の本丸に移ったものと考えられ、金蔵、兵器蔵を接収、3月24日付の書状において国内外へ向け後継者となったことを宣言し、三の丸に立て籠もった景虎に攻撃を開始する。3月中に戦闘が起こったかどうかはわからないが、この頃の景勝の書状に「鬱憤を晴らすための戦い」とあり、景勝の本丸入りも両派の城内戦の末であったと考えられる。なお、景勝は先手を打って春日山城や土蔵の黄金を押さえただけでなく、謙信が使用していた印判や側近や右筆などの文書発給機構を掌握し、謙信時代と同様式の印判状を5月24日以降、奉書式印判状は6月以降に発給しており、これら印判は1582年(天正10年)頃まで使用された。また、謙信晩年の奏者連署者である斎藤朝信・新発田長敦・竹俣慶綱も乱の発生後も引き続き景勝について書状に連署して謙信からの継承性を担保した。一方の景虎が発給した書状は謙信が使用した印判ではなく、独自のものを使用する他、文書様式についても謙信よりの継承性がなく、北条氏や武田氏等に見られるような奉書式印判状を発給した。4月に入ると、陸奥会津蘆名氏家臣の小田切盛昭が、本庄秀綱らと共に景勝方の菅名綱輔を牽制し、盛昭は16日に蘆名盛氏へ状況を報告している。このような睨み合いが越後各地で続いていたようである。5月5日には大場(上越市)において景勝方と景虎方が衝突、春日山城でも景勝方の本丸から景虎方の三の丸に攻撃を始めた。同月半ばに景虎が退去するまで春日山城を舞台としての交戦状態が続き、その間を利用して景勝・景虎双方とも越後諸将に対する工作を展開していった。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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