史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

“日本名僧・高僧伝” “日本名僧・高僧伝” “日本名僧・高僧伝”66・賢俊(けんしゅん、正安元年(1299年) - 正平12年/延文2年7月16日(1357年8月2日))は、南北朝時代の真言宗の僧。

賢俊1
賢俊2
“日本名僧・高僧伝” “日本名僧・高僧伝” “日本名僧・高僧伝”66・賢俊(けんしゅん、正安元年(1299年) - 正平12年/延文2年7月16日(1357年8月2日))は、南北朝時代の真言宗の僧。父は権大納言日野俊光。兄弟に日野資名・資朝。俗名は日野 賢俊(ひの たかとし)。菩薩寺大僧正。醍醐寺宝池院流賢助に師事して密教を学ぶ。1322年(元応2年)12月4日、今熊野において入壇(正式な受戒)の儀式が行われた(『五八代記』)。元弘の変の最中の1331年(元弘元年)9月4日、東宮量仁親王(光厳天皇)ら持明院統の皇族が退避していた六波羅探題北条仲時邸において尊円法親王・賢助らによって五壇法が行われた際、賢助の補佐として「賢俊権大僧都」の名が見られる。2年後、師・賢助の死に際してその後継者に指名された。南北朝時代の内乱では足利尊氏方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた文観を排除する。同年2月尊氏が九州に走った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また持明院統(北朝)の光厳上皇の院宣と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の足利将軍家と日野家の関係の端緒となる。1336年(建武3年/延元元年)6月、権大僧正に任じられて醍醐寺座主となり、示寂するまで22年間当職を占めた。同年に東寺長者、根来寺大伝法院検校、六条八幡宮別当などの顕職に相次いで補任され、寺院社会で大きな影響力をもつようになった。尊氏及び北朝3代(光明・崇光・後光厳)の護持僧として権勢をふるった。醍醐寺に食邑として6万石を寄進されて伽藍を整備し、さらに醍醐寺の院家であった三宝院を再興、新たに造営・寄進されてその院主となった。1342年(康永元年/興国3年)法務大僧正に就任。1350年(観応元年/正平5年)東寺長者の職を辞して尊氏の九州鎮定に従っている。また、観応の擾乱においても尊氏に従って、足利直義方にあった実相院の増基を退けて武家護持僧の筆頭に就いた。尊氏とは厚い信頼関係にあり、その緊密な関係が伺える手紙や願文が『醍醐寺文書』に含まれている。また、醍醐寺に残る「理趣経」(重要文化財)は賢俊の四十九日供養の際、尊氏自らが書写したものである。他の賢俊にまつわる品として、『三宝院賢俊像』(醍醐寺所蔵)や、『三宝院賢俊僧正日記』がある。しかし、当時の醍醐寺の内紛状態の中で傍流に属していた賢俊が幕府・北朝を支持を受けて、醍醐寺ひいては仏教界を掌握できたのは一時的な事であり、彼が没するとたちまち三宝院は力を失って動揺することになった。1374年(応安7年/文中3年)には、彼の後継者である光済が興福寺の強訴で配流されている。その後足利義満が1379年(康暦元年/天授5年)に武家護持僧の管領役を三宝院に一任するなどの庇護策を行うことによって大きく発展することになる。




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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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