史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『戦国時代の群像』123(全192回)田中 吉政(1548~1609)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市

田中5 (2)
田中5
『戦国時代の群像』123(全192回)田中 吉政(1548~1609)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳河(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。そのことは現代でも高く評価されている。筑後国主。田中氏は、18世紀後半に編纂された『寛政重修諸家譜』によると近江国高島郡田中村(現在の滋賀県高島市安曇川町田中)の出身であったという。また先祖は近江源氏高島氏の一族で田中城の城主であったともいわれる。吉政が家紋に「一つ目結い」紋(釘抜き紋ともいう)を用いたことから、先祖は佐々木氏となんらかの関係があった可能性も指摘される。織田信長の高島郡進攻により田中氏は当時は帰農していたとされる。また、吉政の出生地は浅井郡の三川村または宮部村(現在の長浜市三川町、宮部町)で、吉政自身はそこに住む農民であったという説もある。この根拠としては、浅井郡の住人に限られる竹生島の行事・蓮華会の頭人を柳川藩主となっていた吉政が担ったという記録があることである。また三川村には田中吉政の出生伝承が残っている。彼自身が宮部村の国人領主である宮部継潤に仕えた記録がある。また吉政の母すなわち国友与左衛門(宮部継潤家臣)の姉は宮部村と三川村にほど近い坂田郡国友村(当時有数の鉄砲の生産地。現在の長浜市国友町)の出身などである。ただ、近江八幡時代以前の記録は少ない。天正10年(1582年)頃、宮部家中から5,000石を与えられ、秀吉の甥の羽柴秀次(のちの豊臣秀次)の宿老となった[1]。天正13年(1585年)に秀次が近江八幡43万石を与えられると、吉政はその筆頭家老格となった。このとき、同じく秀次付き家老格となった中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊・一柳直末らはそれぞれ居城を持ったが、吉政は秀次の居城・八幡山城にあって、関白殿一老として政務を取り仕切った。また天正14年(1586年)の大政所の三河下向にもかかわったという記述がある。この時代の吉政の書状は、比較的多く残っている。織田信長が築いた安土城下の町を八幡城下に移し、町割を行った。江戸時代中ごろまでは、久兵衛町と名づけられた地域が、近江八幡の町の一画に残っていた。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の北条氏を制圧し、諸大名の大幅な配置換えを行った。この結果、徳川家康は関東に転封された。また織田信雄は下野国烏山2万石に減封された。その結果、空いた尾張国には豊臣秀次が入った。小田原征伐でも秀次軍として活躍した吉政は三河国岡崎城5万7,400石の所領が与えられた。尾張堤普請には惣奉行に命じられ、資材の調達にも関わっていた。文禄4年(1595年)、秀次は自害させられ、木村重茲、前野景定、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直之ら10名が賜死となり、そのほかにも多くの家臣が処分を受けたが、吉政ら宿老にはお咎めはなかった。その際、石田三成が関与したかどうかは不明である。ただし、関白殿一老であった吉政に対しては、切腹を勧める者もいた。吉政には実際は処分はなく、「秀次によく諌言をした」ということで2万8,358石3斗の加増、文禄5年(1596年)に更に1万4,252石6斗加増され、三河国岡崎城主、10万石の大名となった。吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。そして城下の町割には7つの町を堀で囲む田中掘を築造した。また、西側の低湿地の埋め立てを行った。さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備した。秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。関ヶ原の合戦前の岐阜城攻略では黒田長政・藤堂高虎と共に大垣城から岐阜城へ向かう西軍を河渡で殲滅した。この際、石田三成の配下の杉江勘兵衛は、吉政の家臣である辻重勝により討ち取られ戦死している。これにより、三成は戦意を喪失したという記述がある。本戦においては黒田長政軍とともに石田三成軍と激突している。また、西軍の山田去暦や、最前線で戦った明石全登(田中吉政の娘婿という説がある)の逃走を、合戦後に黒田長政(明石全登の親族)と共に手助けをしたとされている(実際は黒田孝高の没後、黒田長政がキリスト教を禁教したので、田中忠政を頼ったという)。東軍勝利後、三成の居城佐和山城を宮部長煕と共に搦手から突入して落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。実際に捕縛に当たったのは、田中伝左衛門・沢田少右衛門である。三成は腹痛で病んでいたが、医師の勧める薬は拒否したため、吉政は熟慮の上、健康に良いという理由付けをしてニラ粥を勧めたので三成はそれを食したと言われている。吉政に会った三成は太閤から給わった脇差しを吉政に授けた(寸延短刀 石田貞宗:東京国立博物館蔵)。手厚くもてなされた礼であると言われている(三成も捕縛される時、「他の者よりはお前に捕らえられた方がいい」という旨の発言をしたという)。戦後、これらの勲功が認められて、筑後一国柳川城32万石を与えられ、国持ち大名となった。吉政は、柳川の掘割を整備することで水運や稲作のための用水路を整備し、近代的な街作りを行った。水路以外にも柳川と久留米を結ぶ田中街道(現県道23号線)や柳川と八女福島・黒木を結ぶ街道を作るなど、陸路の整備にも力をいれた。また、矢部川の護岸整備や有明海沿岸に慶長本土居と呼ばれる堤防を整備したほか、収入の増加を目指して有明海の干拓にも熱心に取り組んだ。慶長14年(1609年)に京都伏見で没した。享年62。田中家は跡を継いだ忠政が男子を残さぬまま死去したために、元和6年(1620年)に改易された。忠政がキリスト教に寛容であり、キリスト教禁教後の政策が比較的穏やかだったことが一因とする見方もある。傍系の親族は他家の家臣となることなどで家系を存続させている。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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