『歴史の時々変遷』1(全361回)94“引田の戦”「引田の戦い」

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『歴史の時々変遷』1(全361回)94“引田の戦”「引田の戦い」天正11年(1583)、讃岐国大内郡(現:香川県東かがわ市)の引田城附近で行われた長宗我部元親と羽柴秀吉の命により派遣された仙石秀久らとの戦いである。四国統一に向け阿波・讃岐へと兵を繰り出していた元親は両国の一大勢力であった三好氏を駆逐し、天正8年(1580)までに両国をほぼ制圧した。一方、中国攻略を進めていた織田信長は元親の台頭をよしとせず土佐・阿波二国の所領安堵を条件に臣従するよう元親に迫るが、四国統一を悲願とする元親はこれを拒否し、これまで良好な関係を築いてきた信長と敵対する道を選んだ。信長と元親の敵対に乗じる形で、かつて信長と敵対していた三好一族の十河存保は失地回復を目論み信長に接近し、その後ろ盾を得ることに成功。存保らは天正9年(1581)、再び讃岐へと反攻を開始した。天正10年(1582)、信長は三男の神戸信孝を総大将に丹羽長秀、津田信澄らを中心とする四国討伐軍を編成し、堺にて元親討伐の準備を整え始めた。しかし、同年本能寺の変により信長が横死すると、信孝と長秀は明智光秀の娘婿である信澄が明智方へ内通していると疑い野田城にて信澄を討ち取るなど、討伐軍内部に混乱が生じたため四国討伐は立ち消えとなってしまった。本能寺の変が起こると三好康長は近畿へ逃避し、三好側の反攻勢力は勢いを失ってしまった。元親はこれを機に阿波・讃岐の反攻勢力の一掃を図り両国の完全掌握を目指した。中富川の戦いにて存保を破り、さらに8月には雑賀衆の助力も得て存保の立て籠もる勝瑞城を攻め落とすことに成功。阿波に留まることが出来なくなった存保は讃岐虎丸城へと遁走し、秀吉に救援を求めた。天正11年(1583)、中央では秀吉と柴田勝家による主導権争いが日増しに激化し賤ヶ岳の戦いが起ころうとしていた。そのため存保の要請に対して多くの軍勢を割くことはできずにいた。秀吉の命を受けた仙石秀久は小西行長、森九郎左衛門等と2,000の軍勢を率い、高松頼邑の守る喜岡城や牟礼城等、諸城の攻略に向かうもこれらを落とせず、一旦小豆島へと撤退する。同年4月に秀久と九郎左衛門は再度讃岐へ侵攻し、海上からすぐに着岸できる引田城に入城した。その頃、阿波白地で兵を整えた元親は20,000の軍勢を率いて讃岐へ侵攻。寒川郡田面山に陣を敷き、虎丸城攻めを開始する。同月21日、秀久は長宗我部軍の香川信景率いる讃岐勢及び、大西頼包率いる阿波勢の計5000が引田に向け進軍中であるとの報を受け、奇襲をかけるため手勢を3つの隊に分け仙石勘解由、仙石覚右衛門、森権平をそれぞれ将とし、入野山麗に伏兵をおいた。秀久の読みは的中し、入野原にさしかかった阿讃勢に対し鉄砲を浴びせ、奇襲を受けた阿讃勢は一時退却をせざるを得なくなった。秀久本隊も追撃をかけ優勢に戦いを進めていたかに見えたが、数に勝る阿讃勢はすぐさま隊を立て直し次第に戦を優位に進めるようになった。阿讃勢が会戦しているとの報を受けた元親は配下の桑名親光、中島重勝隊らを救援に向かわせた。土佐勢の増援が駆けつけたことで長宗我部勢が仙石勢を完全に圧倒するようになり、完全に隊を乱した仙石勢は多くの将兵を失いながら引田城への退却を余儀なくされた。この戦いで仙石勘解由は前田平兵衛に討たれ、殿をしていた森権平は稲吉新蔵人に討たれてしまう。また、混乱の最中に秀久は幟を取られる失態を見せたという逸話もある。一方の長宗我部勢は中島重勝、桑名藤十郎等が討死した。長宗我部勢はそのまま引田へ進撃、布陣した。翌日秀久の籠もる引田城を取り囲み総攻撃をかけたが、既に戦意を失った仙石勢は抵抗らしい抵抗を出来ずに城を逃げ出さざるを得なかった。秀久は敗戦後淡路に逃げ帰り淡路と小豆島の守りを固め瀬戸内の制海権維持に務めた。一方の元親は天正12年(1584)6月までに存保の居城である十河城や虎丸城も制圧し、勝ち目のなくなった存保は大坂の秀吉を頼って讃岐を脱出するほかなくなった。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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