史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)193“信長の四国攻め” 「信長の四国攻め」天正10年(1582)5月上旬、信長は三男の織田信孝を総大将、丹羽長秀

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四国5A
『歴史の時々変遷』(全361回)193“信長の四国攻め”
「信長の四国攻め」天正10年(1582)5月上旬、信長は三男の織田信孝を総大将、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将として四国方面軍を編成し、四国攻めの指示を下した。三好康長はその先鋒として勝瑞城に入り、阿波の親三好勢力を糾合して一宮城(徳島市一宮町)・夷山城(徳島市八万町)を攻略した。長宗我部方の野中三郎左衛門・池内肥前守らは一宮城主一宮成祐・夷山城主庄野和泉守を人質に取って牟岐(徳島県海部郡)に退却した。5月29日には信孝の軍は摂津住吉(大阪市)に着陣し、また信澄・長秀勢は摂津大坂、頼隆勢は和泉岸和田に集結し、総勢1万4,000の軍が渡海に備えていた。これらの軍は6月2日に四国へ向けて出航する予定だったが、当日朝に本能寺の変で信長が自害したため作戦は立ち消えになった。集められた軍勢のなかには、本能寺の変の報を受けて動揺し、逃亡したものも少なくなかった。また光秀の女婿にあたる信澄は信孝・長秀によって野田城(大阪市福島区)で殺害された。しかし、秀吉東上の大行軍(中国大返し)の報によって動揺は沈静化し、6月12日、摂津富田(大阪府高槻市)に着陣した秀吉軍に合流した。このとき、信孝は名目的にではあるが総大将に推された。翌6月13日の山崎の戦いにも光秀討伐軍として参戦した。後ろ盾である信長を失った康長は勝瑞城を捨てて逃亡した。長宗我部氏は存亡の危機を脱し、一転して阿波・讃岐侵攻の絶好の機会を迎えた。天正10年(1582)6月、長宗我部元親は東予・西讃の諸将を動員し、香川信景3,000、長尾・羽床・新名氏ら1,000の兵力を西長尾に集結させて香川親政を総大将となした。7月、これらの兵はまず那珂・鵜足郡へ侵攻し、聖通寺城(現宇多津町)の奈良氏を敗走させた。次いで香西佳清の藤尾城を攻めて降伏させた。さらに十河氏の名代三好隼人佐が守る十河城を攻めた(第一次十河城の戦い)が、攻略はできなかった。また、淡路国の菅達長が長宗我部氏に呼応して淡路国内の羽柴軍の拠点を襲撃している。8月、元親は中富川の戦いで十河存保を破り、阿波勝瑞城・岩倉城を攻略した。さらに同年、虎丸城に逃れた存保を追って讃岐に侵攻した。同年10月、元親は親政勢と合流し、合計36,000の軍勢で十河城を包囲したが攻略には至らず、冬にはいったん帰国した。この間に存保の救援要請に応じて、秀吉から仙石秀久が小豆島に派遣された。仙石は屋島を攻撃したが攻めきれず退却した。前節における藤田達生氏の説によれば、天正9年(1581)以降秀吉は四国に関しては一貫して長宗我部氏との対決路線を保持しており、そのため長宗我部氏は対抗上秀吉の敵対勢力と同盟する道を選んだとしている。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際し、元親は柴田勝家・織田信孝と結んで秀吉を牽制したため、秀吉は秀久を淡路洲本城に配置してこれに備えた。同年春、元親は再度讃岐に出陣して十河城・虎丸城を包囲したため、秀久を援軍に送ったが敗退して小豆島を維持するにとどまった(引田の戦い)。4月には長宗我部氏に服さず自立の姿勢を見せていた木津城の篠原自遁が、香宗我部親泰に追われて淡路に敗走した。同年冬から翌年にかけては、毛利氏が秀吉と和睦したことにより毛利・長宗我部の関係が冷却化し、毛利氏と友好関係にある伊予の河野通直・西園寺公広への長宗我部方の攻勢が再開された。一方、天正11年(1583)の末に長宗我部氏と秀吉の間で和睦が協議されたとする説がある。天正11年12月に毛利氏の重臣である安国寺恵瓊と林就長が連名で同じく重臣である佐世元嘉に充てた書状(『大日本古文書 毛利家文書』861号)の中に長宗我部元親が秀吉に対して讃岐と阿波を放棄して伊予を渡して欲しいと申し入れているという文言がある。この文言について、藤木久志は後の四国攻め直前にも同様の国分案が出ていることから、この時期に国分協定が済んでいたが毛利氏の要求で伊予国の扱いが白紙になったために和平が成立しなかったと説いた。天正12年(1584年)正月、長宗我部氏の伊予侵攻に対応して、毛利氏は河野氏援助のため伊予に派兵したため、織田政権時代からの長宗我部・毛利の関係が崩れた。3月から始まった小牧・長久手の戦いでも元親は徳川家康・織田信雄と結び、紀伊の根来・雑賀衆と協力して秀吉の背後を脅かす姿勢を見せた。6月、元親は長期の攻城の末に讃岐十河城を攻略した(第二次十河城の戦い)。この年の後半には伊予における長宗我部氏の攻撃は激しさを増し、10月19日には長宗我部方が西園寺公広の黒瀬城を攻略した。これに対抗して毛利氏も伊予に児玉就英らを増派し、河野・西園寺氏への支援を強化した。だが、11月に入ると、家康・信雄と秀吉の間で和議が結ばれることになる。天正13年(1585)3月から4月にかけて秀吉は紀州攻めを行い、元親の同盟勢力である根来・雑賀衆を潰した。これによって長宗我部氏は軍事的に孤立した。
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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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