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『戦国時代の群像』120(全192回)三好 康長(生没年不詳)、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。阿波岩倉城、河内高屋城主。三好長秀の子で元長の弟

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三好3
『戦国時代の群像』120(全192回)三好 康長(生没年不詳)、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。阿波岩倉城、河内高屋城主。三好長秀の子で元長の弟、康俊の父。三好長慶の叔父。諱は康慶ともする。剃髪して咲岩または笑巌(笑岩)と号した[2]が、共に「しょうがん」と読む。三好氏の一門衆で、甥に当たる宗家当主・三好長慶に従い、その弟で阿波国主の三好実休に仕えて、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。三好の本貫地である阿波を拠点とする。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍・足利義輝、細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸。永禄3年(1560年)3月、長慶・実休兄弟の和解の仲介役を果たし、河内遠征でも実休の名代として長慶と対面した。永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。同年の実休の死後は拠点を河内高屋城に前進させ、他の家臣団と協力して実休の遺児・三好長治を支えた一方で、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している[3]。永禄7年(1564年)の長慶の死後、三好宗家の家督は大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対して家中が分裂すると、康長は三人衆側に同調した。永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦し、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出し、堺へ赴き久秀と手を結ぶ。康長と安見宗房も義継に従って久秀側へと一時的に鞍替えしたが、すぐに反目。永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席して、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、康長・三人衆らは同年6月に松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落し、9月には筒井順慶と結んで多聞山城を落とすなどして、松永勢を追い込んだ。この頃、茶会において咲岩の入道号の使用がすでに見られる。15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立して、9月25日には大津まで大挙して6万の兵を進めると、大和国の制圧の途中だった三人衆の軍は背後を突かれて崩壊。国衆や公方衆の多くが織田側に寝返る中で、摂津・和泉に各々退却し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主・岩成友通が降伏。30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸も、細川昭元と共に城を退去して阿波に逃亡。康長は10月2日には摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びたが、同年暮れには反撃を始めて、三好政康と共に和泉家原城を攻略した。翌永禄12年(1569年)1月早々に康長と三人衆は和泉に上陸して、京都六条本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが(本圀寺の変)、細川藤孝や義継、摂津国人衆(伊丹親興・池田勝正・荒木村重)らの援軍に敗れ、さらに織田の援軍が来るという情報の前に、再度阿波に逃れた。元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は再び摂津国中嶋に上陸して、野田城・福島城を改修して籠城した。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるが(野田城・福島城の戦い)、石山本願寺の一向宗勢の参戦もあり攻城戦に失敗。さらに9月27日には篠原長房が率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸して山城へ向けて兵を進めたところで、11月21日に松永久秀の仲介によって、信長は長房・康長・三人衆と和睦して撤収した。康長は12月に松永久秀・三好義継と和睦し、以後しばらくは久秀と歩調を合わせた。元亀2年(1571年)、畠山昭高がその老臣・遊佐信教と対立すると、信教に与して、11月に久秀と共に高屋城を攻めた。これ対して信長は公方衆と合わせて高屋城救援軍を派遣。康長は逆に枚方城を攻められるが、膠着状態となる。元亀3年(1572年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重らは、河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に同年中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。ところが、天正元年(1573年)、篠原長房が三好長治に誅殺され(上桜城の戦い)、阿波三好家からの支援が絶たれてしまう。同年7月には義昭も信長に敗れ追放され(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれて三好宗家が滅亡し(若江城の戦い)、三人衆も壊滅。12月に久秀も信長に降伏した。天正2年(1574年)4月、本願寺が再び信長に反抗すると、康長もこれに呼応して高屋城に入った。康長は三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)に信長に攻められ、4月8日に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、相国寺にて信長に面会して赦免され、10月に所持していた名物「三日月」を信長に献上している。その後は、一転して信長から重用され、本願寺との和睦交渉の担当して10月21日に一旦和睦成立に成功させ、河内半国の支配も命じられている。天正4年(1576年)4月、本願寺との和が破れると、信長は荒木村重・塙直政・長岡藤孝・明智光秀を討伐に派遣した。康長は大和守護であった塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わった。5月3日、直政は康長を先鋒として三津寺を攻撃しようとしたが、本願寺勢(雑賀衆)の奇襲を受けて失敗。この戦いで直政は討死し、康長は辛くも脱出した。その後、康長は四国(特に阿波)に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移した。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年から6年にかけて淡路の安宅信康に働きかけて降誘に成功した。天正9年(1581年)1月より康長は四国に渡ったが、3月には讃岐より阿波に至り、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を織田側へ寝返らせた。天正10年(1582年)2月9日に康長は四国遠征の先鋒を命じられ、先んじて再び阿波に渡った。5月に信長の三男・神戸信孝が総大将に任じられると、康長が信孝を養子とする事も内定し、四国統一の暁には阿波一国を与えられることが約束をされた。ところが、6月2日に本能寺の変で信長が明智光秀に攻撃されて横死した為、四国遠征は中止となった。この時、康長は阿波一宮城・夷山城を攻略中であったが、急遽、兵をまとめて河内に帰還した。勢いを回復した長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に接近してこれに主従。秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えた。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある[7]。天正10年9月、信吉と共に紀州・根来寺攻めに参加している。『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。没年不詳。なお、本来の後継者である嫡男・康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗した。こちらも没年不明。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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