史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)192“鳥取攻め”「鳥取攻め」天正8年(1580)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦

鳥取6
鳥取4
『歴史の時々変遷』(全361回)192“鳥取攻め”「鳥取攻め」天正8年(1580)に織田方・羽柴秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担している)の末、9月に豊国は和議により信長へ降伏、臣従した。ところが、同月毛利氏の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。 この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。 春重は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い帰還(近年の研究では、帰還後も生存していたことが明らかになっている)、何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏の重臣である吉川経家を城主に迎えた。同年4月、因幡守護・豊国は織田氏へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。 残存する山名氏旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。 秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。 陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、1400の兵が籠る鳥取城に付近の農民ら2000以上を城に追いやった。さらに河川や海からの毛利勢の兵糧搬入も阻止した。 このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。 何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し人肉を食らう者まで現れた。 信長公記には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。 城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。
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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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