「真言宗十八本山」勧修寺・京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基は醍醐天皇、開山は承俊、本尊は千手観音である

か勸修寺ー
か勸修寺4
「真言宗十八本山」勧修寺・京都市山科区にある門跡寺院。真言宗山階派大本山。山号を亀甲山と称する。開基は醍醐天皇、開山は承俊、本尊は千手観音である。寺紋は裏八重菊。皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院である。「山階門跡」とも称する。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。一方、山科区内に存在する「勧修寺○○町」という地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。開山は東大寺出身の法相宗の僧である承俊律師。代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えたが、1470年(文明二年)兵火で焼失して衰退し、江戸時代に入って徳川氏と皇室の援助により復興された。宮道弥益は山城国宇治郡(現・京都市山科区)の大領であった。弥益の娘・宮道列子は藤原北家の流れを汲む内大臣藤原高藤に嫁した。彼らの間に生まれたのが宇多天皇女御・醍醐天皇生母となった胤子である。高藤の流れを汲む家系を、寺名にちなんで勧修寺流という。前述の通り、勧修寺は延喜五年(905年)に定額寺に列せられ、皇室と藤原氏の援助を受けて栄えた。天永元年(1110年)、7世長吏となった寛信(1084 - 1153)は藤原高藤八世の孫・藤原為房の子で、東寺長者、東大寺別当などを歴任した人物である。「勧修寺法務」とも称された寛信は真言密教の事相に通じ、真言宗小野流の一派である勧修寺流の祖とされている。南北朝時代、後伏見天皇第七皇子の寛胤法親王(1309 - 1376)が15世長吏となって以来、勧修寺は宮門跡寺院となり、幕末まで法親王ないし入道親王が入寺した。中世の勧修寺は現在の京都市山科区勧修寺一帯を領するほか、各地に広大な寺領をもち、真言宗小野流の中心寺院、皇室ゆかりの寺院として最盛期を迎えた。建武3年(1336年)の「勧修寺寺領目録」によると、勧修寺の寺領は加賀国郡家荘をはじめ、三河、備前など十八か荘に及んでいた。その後、応仁の乱と文明二年(1470年)の兵火で寺は焼失。豊臣秀吉が伏見街道を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。寺が再興されるのは天和二年(1682年)、霊元天皇皇子の済深法親王が二九世長吏として入寺してからであった。法親王が東大寺大仏殿再建に功があったとして、寺領が1,012石に加増された。現存する本堂、宸殿、書院等の伽藍は、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜されたものである。済深法親王に次いで三〇世となった尊孝法親王は伏見宮出身であった。法親王の叔母にあたる真宮理子(さなのみやまさこ)が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。西国札所として著名な紀三井寺護国院は、現在は真言宗から独立しているが、元は勧修寺の末寺であった。真言宗各派は明治以降、対立と分派・合同を繰り返した。御室派、醍醐派、大覚寺派等が分立した後も勧修寺は「真言宗」にとどまっていたが、明治四十年(1907年)には当時の「真言宗」が解消されて山階派、小野派、東寺派、泉涌寺派として独立。勧修寺は山階派本山となった。その後、第二次大戦中には宗教団体法の施行により、既存仏教各派の統合が進められ、真言宗各派は完全に統合されたが、戦後の昭和二十七年(1952年)に再度山階派として独立している。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
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