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『歴史の時々変遷』(全361回)190“中国攻め”「中国攻め」天正5年(1577)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽

四国6
四国3
『歴史の時々変遷』(全361回)190“中国攻め”「中国攻め」天正5年(1577)以降、織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じておこなった、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦である。中国征伐とも称する。いくさは足かけ6年にもおよび、天正10年6月4日に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日に本能寺の変にて信長は横死して、そのまま未完に終わった。織田信長と毛利氏は、阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、たがいに友好関係を保持してきた。信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田城・福島城の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった。しかし、一方で信長は天正3年(1575)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている。天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した。これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった。そして、天正元年(1573年)に室町幕府最後の将軍足利義昭を京より追放し、越前を平定した後の信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となったのである。越前制圧の直後、信長方の摂津有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重は西播磨の豪族から人質をとり、謀反を起こした宇喜多直家と交戦中であった備前の浦上宗景を援助して宗景の居城天神山城(岡山県和気郡和気町)に兵糧を入れ援助したが、天正3年9月に宗景は直家に敗れて備前を追われた(天神山城の戦い)。浦上宗景の敗退によって毛利氏に与する宇喜多直家が備前の支配権を奪取し、これにより毛利勢力の東進による織田氏との直接の衝突が現実味を帯びた。信長は天正3年10月、播磨の旧守護家赤松氏の配下であった御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職や、三木城(兵庫県三木市)の別所長治、龍野城(兵庫県たつの市)の赤松広英、直家によって失領した宗景らが上洛して信長に出仕した。一方、山陰地方では信長が毛利方との約束に反して、それ以前から尼子勝久・山中幸盛(鹿介)らの挙兵をひそかに支援していたことから事態は転変を繰り返した[6][8]。天正2年(1574年)に尼子勢が因幡で挙兵して、私都城(鳥取県八頭郡八頭町)、若桜鬼ヶ城(鳥取県八頭郡若桜町)を攻めて鳥取城(鳥取市)の城主山名豊国に危険がせまったため、豊国の伯父で信長に取り立てられていた但馬の有子山城(兵庫県豊岡市)城主山名祐豊は豊国救援のため毛利方に走った。しかし、丹波の黒井城(兵庫県丹波市)城主の赤井直正(荻野直正)が但馬国内へ侵入したため、祐豊は再び信長方に転じた。天正4年(1576年)2月、足利義昭は紀伊興国寺(和歌山県日高郡由良町)から毛利氏の支配する備後国鞆の浦(広島県福山市)に移った。これは、必ずしも毛利氏の歓迎するところではなかったが、義昭はさかんに輝元らに対し信長に敵対するよう働きかけた。義昭はそれ以前から征夷大将軍として御内書を出して各地の大名の糾合を呼びかけ、信長包囲網(第3次)の形成に努めた。その結果、長らく信長と対立していた本願寺や武田氏のみならず、備前国の宇喜多直家などがこれに参加した。こうした動きは、信長傘下の諸勢力にも少なからざる動揺を与えた。信長は、天正3年秋より明智光秀に命じて丹波攻めを本格的に開始し、光秀は丹波の国人のほとんどを味方につけて赤井忠家とその叔父荻野直正の立てこもる黒井城を包囲して兵糧攻めにして落城寸前にまで追いこんでいたが、天正4年初頭、突如として丹波国人の1人で八上城(兵庫県篠山市)主波多野秀治が裏切り、光秀は総退却を余儀なくされた(第一次黒井城の戦い)。前後して、いったんは織田氏に与力した但馬の山名祐豊が天正3年末、またも信長に叛旗をひるがえした。天正4年4月、信長が荒木村重、細川藤孝、明智光秀、原田直政に命じ、一向一揆の拠点である摂津の石山本願寺(大阪府大阪市)攻めを開始して石山合戦(第4次)がはじまるに至って、織田氏の強大化に危機感をいだいた毛利氏は、淡路北端の岩屋城(兵庫県淡路市)を占拠し、本願寺に兵糧や弾薬を搬送するなどの救援に乗り出し、信長包囲網の一画に加わった。毛利氏は紀伊の雑賀衆と連携し、天正4年7月の第一次木津川口の戦いで織田氏に対し最初の戦闘をしかけた。児玉就英ら毛利氏警固衆、乃美宗勝ら小早川水軍に因島・能島・来島の各村上氏を加えて淡路の岩屋に集結し、宇喜多氏の加勢も得た毛利水軍の兵糧船600艘と警固船300艘は、和泉貝塚(大阪府貝塚市)に回航して雑賀衆の新手と合流して北上した。また、木津川の河口で焙烙玉を用いた攻撃などによって織田水軍の安宅船10艘、警固船300艘を破り、数百人を討ち取るという大勝利を収め、織田氏の海上封鎖を破って石山本願寺に兵糧米をとどけることに成功した[14]。この時、摂津・和泉の門徒も毛利方に加勢している。中国戦線においては、毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は、北陸戦線から離脱して謹慎していた羽柴秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した。秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入ったのである。秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老黒田孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。但馬では、岩洲城(兵庫県朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を攻略し、竹田城に弟の羽柴秀長を城代として入れた後播磨に引きあげた。播磨では、秀吉は国中を巡って信長の旗下に入るよう促し、置塩城の城主で旧守護家当主の赤松則房ほか国人衆の多くを調略によって降伏させて人質をとり、1か月ほどで西播磨全域をほぼ支配下においた。秀吉は、播磨佐用郡を中国地方への前進基地として重要視し、竹中重治・黒田孝高らを派遣して、毛利方の福原助就を城主とする福原城(兵庫県佐用町)を攻略して陥落させた。西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた[30][29]。これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老の高島正澄は殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛は尼子勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。この後、勝久と幸盛は宇喜多勢に攻められていったん撤退し、直家はこれを上月十郎景貞という人物に守らせたが再び秀吉軍によって落城し、景貞は敗走中に自刃したと伝わっている。こうして、秀吉は、織田方と毛利・宇喜多方の緩衝地帯の要素の濃かった播磨一国をわずか2か月で手中に収めた。この年の年末に近江国に帰った秀吉は、播磨・但馬平定の褒賞として、主君信長より自慢の茶器「乙御前の釜」を賜っている。天正6年(1578)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、堀や柵を設けて何重にも城を取り囲んだ。秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄・信孝を派遣した。先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった[注釈 14]。この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)[35]。こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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