『戦国時代の群像』117(全192回)仙石 秀久(1552~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代

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た談山神社3 (2)
『戦国時代の群像』117(全192回)仙石 秀久(1552~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。天文21年(1552年)1月26日、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)に生まれた。系図によれば仙石氏は藤原利仁を祖として始まったと伝承されており、本姓は藤原姓であった。しかし仙石基秀の代に土岐氏の血を引く親族の仙石久重が後継者とされ、久重は基秀の娘と婚姻して家督を継承した。これ以降、仙石氏は源姓(土岐源氏支流)を称している。土岐氏没落後は台頭した斎藤氏に仕え、父・久盛も斎藤家三代に奉公した。四男であった秀久は家督を引き継ぐ可能性が低く、親交のあった越前国の豪族である萩原国満の養子として引き取られている。だが織田氏と斎藤氏が対峙する中で嫡男が相次いで倒れると久盛から急遽呼び戻され、仙石氏の家督を譲られる。永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興が織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて落ち延びた後、信長は秀久の勇壮な風貌を気に入り、配下である羽柴秀吉の寄騎に任命した。永禄7年(1564年)、14才で織田家入りを果たしてからは羽柴隊(木下隊)の馬廻衆として各地を転戦し、最古参の家臣として秀吉から寵愛を受けた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加している。この戦いで浅井方の山崎新平を討ち取った功績により、天正2年(1574年)に秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられ、一領主となった。また同じ羽柴家の家臣で黄母衣衆の一員である野々村幸成の娘・本陽院を正室に、甲斐国の浪人の娘であるという慶宗院を側室にそれぞれ迎えて10男6女を儲けている。やがて秀吉が信長から中国攻略を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正6年(1578年)に4,000石を加増、天正7年(1579年)には茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。また、三木合戦で三木城を包囲していたこの時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯の山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。さらに天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋城・由良城を陥落させた(淡路遠征)。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去し、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。秀吉は織田氏筆頭家老の柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対決。秀久も羽柴秀勝と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583年)4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。一説では、この戦いの最中に秀久は幟を取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。天正11年(1583年)、秀久は淡路平定の軍功を評価されて淡路国5万石を拝領して大名となり、洲本城に入城した。天正8年(1580年)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581年)といわれているため、これは資料の誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、紀州征伐では湯川一族討伐で功を挙げた。羽柴軍本隊による四国攻めの折には喜岡城を攻略、木津城攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年(1585年)、四国攻めの論功行賞により讃岐1国(うち2万石は十河氏領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)、或いは高松城に入城した。豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦に望んだ上で敗北した事は秀吉の勘気を被るに十分な理由と言えた。加えて敗走する軍を取りまとめる軍監役としての責務を果たさず、諸侯を差し置いて小倉城に入城した事も不名誉となった。小倉城に引き退いた後も防戦は行わず、20名の家臣団と共に遠征軍の敗残兵を率いて讃岐国へ退却してしまい、敗北と合わせてそれまでの名望を一挙に失う事となる。秀吉は仙石氏に与えた讃岐国を召し上げ(改易)、秀久に対しては高野山追放の処分を下した。改易から暫くは高野山にて隠棲し、京都・大坂に滞在していた時期もあったという。 だが天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると三男・仙石忠政と共に美濃国で20名の旧臣らを集め、浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じた。陣借りには秀吉の盟友となっていた徳川家康からの取り成しを受けている[6]。秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。豊臣政権下では領地の小諸城ではなく、秀吉の家臣として京に滞在していたとされている。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても同様の功績を挙げたため、7,000石を加増され、5万7,000石の大名となった。築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捻じ伏せ、捕縛したとの伝承が残っている。秀久は秀吉から石川五右衛門が盗もうとした大名物「千鳥の香炉」を褒美として拝領した。小諸藩主としての秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、先に述べた小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、小諸城を近代城郭として完成させた。特に大手門は歴戦の武人らしく華美な装飾を省き、慶長風の質る。実剛健な作りとなっている。 八幡宮(八幡神社)の勧進や街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残し、笠取垰と小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績といえる。一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている。しかし、その後は農民の逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢の減額・猶予による農民の帰還や、農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策に取り組み、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還を呼びかけている。幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去した。享年64。遺骸は小諸の西念寺で荼毘に付され、墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内の一つである芳泉寺の墓所を正式な霊廟としている。家督は三男・忠政が継いだ。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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