『歴史の時々変遷』(全361回)186”天神山城の戦い“「天神山城の戦い」天正2年(1574)4月から天正3年(1575)9月にかけての期間行われた浦上宗景・三浦貞広と宇喜多直家との間の戦い。最終的に雌雄を決した戦いは天神山城を巡る攻防

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『歴史の時々変遷』(全361回)186”天神山城の戦い“「天神山城の戦い」天正2年(1574)4月から天正3年(1575)9月にかけての期間行われた浦上宗景・三浦貞広と宇喜多直家との間の戦い。最終的に雌雄を決した戦いは天神山城を巡る攻防であったが、それに至るまでの停戦期間を挟みつつも1年以上の期間に渡って備前国・美作国に跨る広範囲で両陣営の武力衝突があった。浦上宗景は元は赤松氏の重臣であった兄浦上政宗から独立して備前で旗揚げし、毛利元就などの助力を得ながら次第に勢力を広げ、やがて兄の勢力を凌ぐようになると毛利とも手を切り戦国大名となった勢力である。その後、浦上氏は永禄10年(1567)の明善寺合戦で備中国の三村元親を撃破し、永禄11年(1568)には備前松田氏を滅ぼし更に勢力を拡大し、備前ほぼ一国と美作・備中・播磨の一部という4ヶ国に跨る所領を持つ大名へと成長した。永禄12年(1569)に浦上宗景が赤松政秀の所領を圧迫し、足利義昭が織田信長に政秀救援を要請した際にはついに足利義昭を公儀として奉じ、「備前衆」の盟主として浦上氏からの離反を宣言するに至った。同年7月、直家は軍事行動を開始。備前北部で浦上配下の垪和・原田ら美作国衆の軍団と戦って勝利を収め、また美作でも美作三浦氏再興を目指す三浦貞広の軍勢と合流し毛利氏の香川広景の守る高田城を攻めたがこちらは途中で包囲を解き、宇喜多軍は撤退した。その後、播磨で黒田孝高の活躍で打撃を負った赤松政秀が織田氏の救援が届く前に浦上軍に降伏してしまい(青山・土器山の戦いも参照)、直家は孤立。直家はそれ以上の交戦を避けてすぐさま浦上軍に降伏して非礼を詫び、この時の事は宗景と尼子勝久の間で話し合いが行われた結果、罪は赦免された。直家に危害を加えれば公儀や織田氏に明確な敵対の意志が有ると見られる恐れが有ったため、できる限り穏便な措置を執らざるを得なかったのである。直家は浦上氏を倒すことは出来なかったものの事実上の独立はこの時点で果たされた。ただ、浦上・宇喜多両家の関係は悪化したもののこの時点では破綻せず、共通の脅威である毛利氏と対峙するという点で一時的に修復される。宇喜多軍は浦上との停戦後は主戦場を備中に移し、同年12月に毛利元清・熊谷信直・三村元親らが宇喜多に臣従している植木秀長の治める備中佐井田城に肉薄した時には戸川秀安が出陣し、三村元親に傷を追わせ穂井田実近を討ち取る勝利を収め、毛利・三村軍を退かせた。一方、美作では撤退した宇喜多軍と入れ替わるような形で尼子再興軍の山中幸盛が高田城攻めに加勢し、永禄12年(569)10月に更に浦上から明石氏・岡本氏、宇喜多から長船氏の軍勢が攻め手に加わり、永禄13年(1570)にはついに香川広景を追い三浦貞広が旧領復帰を果たし、三浦軍はその後も寺畑城など高田城の支城群を回復し同年中に一定の勢力を取り戻す事に成功する。大友宗麟は既に能島水軍の村上武吉を調略で毛利氏より離反させており、浦上宗景も今井宗久を通じて信長に貢ぎ物を送るなどして関係の改善を図る一方で、三好義継配下の篠原長房や讃岐の香西水軍らに協力を求め、備前の中で未だに支配下に納めていない児島の攻略を狙っていた。更に但馬では織田信長の支援を受けた山名祐豊が所領を回復して尼子再興軍と共闘の姿勢を見せ、因幡でも祐豊の意向で山名豊国が因幡山名氏の家督を相続した。こうして毛利に対して大友・浦上・尼子・宇喜多・美作三浦・山名・三好らが一斉に敵対の姿勢を見せる「毛利包囲網」とも言うべき状況が完成したのである。以後、浦上・宇喜多・能島水軍と毛利・三村の対立が激化。元亀2年(1571)年2月から能島水軍が公然と毛利に反旗を翻し本太城に兵を入れた事に対して小早川隆景が動き、4月までには本太城を攻略。続けて隆景は粟屋就方に兵を与えて児島の救援に向かわせたが5月の備前児島の戦いで浦上軍と援軍に駆けつけた三好氏配下の篠原長房率いる阿波水軍衆に惨敗を喫した。また備中では庄勝資が三村氏の本拠である松山城を占拠して宇喜多に内通し、同時に宇喜多の軍勢が三村領を侵し幸山城を奪取した。9月には再び備中佐井田城で植木秀資(秀長の子)の援軍である浦上・宇喜多と毛利・三村両陣営の武力衝突があったがこれも浦上・宇喜多軍が勝ち、三村元親の実兄庄元祐がこの戦で討ち死にした。この間、毛利包囲網の攻撃が激化する中で毛利元就は病床にあったが、安国寺恵瓊を使者として京の足利義昭へと遣わせて大友・浦上・三好などとの和睦の周旋を依頼していた。しかし、三好が含まれている事に義昭が難色を示し失敗。6月14日には恵瓊の帰国を待たずして死亡し、毛利氏の家督は嫡孫毛利輝元へと移っている。元亀3年(1572)、今度は足利義昭が和議の周旋に動き、三好を除いた毛利と大友・浦上間の停戦を柳沢元政に準備させていた。一方で毛利輝元は反抗勢力へと反撃を開始し、3月には浦上宗景と不仲になって交戦状態であった美作三星城主後藤勝基に援軍を送って毛利陣営への引き込みを図り、また宇喜多直家に圧迫されていた備中には吉川元春・小早川隆景が着陣するなど軍事行動を起こしている。毛利の脅威に晒された宇喜多直家は同年6月に足利義昭に毛利との和議の周旋を依頼し、義昭もすぐにこれに応じて毛利方に書状を送って輝元の意見と京への安国寺恵瓊の派遣を求めたが難色を示し、この時は和議の締結に至らず毛利方は兵を退くこともなかった。これ以後、むしろ毛利輝元は備前方の討伐に意欲を見せ、9月には輝元自らが出馬して合流し宇喜多に占領されていた備中日幡城・加茂城・蛙ヶ鼻城の諸城の攻略を目指す一方で、美作では三星城に兵糧や銀子を差し入れた上で因幡国より武田高信を呼び寄せて着陣させるなど攻勢に向けて戦力を集中させた。しかし、浦上・宇喜多の要望によって動いた事もあってか備芸和平の内容は毛利方にとっては明らかに不利なものであり、備前方より奪った要害12ヶ所の差し渡しに加えて、救援に力を注いでいた三星城の陣の破却までも行わなければいけなくなった。天正元年(1573年)になると毛利と大友・浦上などとの直接の争いは無くなったものの、但馬・因幡の両山名氏や大友・浦上の支援する尼子再興軍や美作三浦氏の反毛利活動は未だに続いており、因幡国で山中幸盛と牧尚春、伯耆日野衆が毛利方の城を攻撃していた。一方で毛利方も状況を打破すべく動き出しており、同年中に宇喜多直家と急接近し、10月には毛利の兵が美作の奥津・才原に入り、直家と連携する姿勢を見せている。一方で11月に浦上宗景は上洛して織田信長に謁見し、播磨で争っていた別所長治との和平を仲介してもらったが、更にこの席で「備前・播磨・美作安堵の朱印」を得た。同年12月に毛利は安国寺恵瓊を派遣して織田信長に尼子再興軍への対応を求め、信長は恵瓊に「山中幸盛が柴田勝家を通じて取り成しを求めているがこれは許容しない」という旨を記した朱印状を与え、翌年2月の羽柴秀吉の但馬出兵を約束した。また、安国寺恵瓊は派遣された京で信長が浦上宗景に「備前・播磨・美作安堵の朱印」を与えたという情報を仕入れ、これを織田氏の芸州進出の準備であると国元へ警告している[16]。翌天正2年(1574)になっても秀吉の援軍は無いまま尼子再興軍は山陰で活動し続けており、信長は毛利との約束を反故にした形となった。足利義昭への工作においては浦上宗景に先んじており、幕府より所領の独立性を認められた宇喜多直家であったが織田信長への工作では宗景に逆転された形で、信長が義昭を追放すると浦上氏に3ヶ国安堵の朱印状が発給され、宇喜多氏の独立性が中央に否定されかねない状況に陥っていた。直家は義昭の仲介でようやく結ばれた備芸和平を軽視した宗景の行動を『宗景存外之御覚悟』として驚いたが、織田の後ろ盾を得た宗景に対抗するべく、直家も毛利との連携を強化していく



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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