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『戦国時代の群像』114(全192回)「堀 秀政」(1553~1590)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。

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『戦国時代の群像』114(全192回)「堀 秀政」(1553~1590)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。天文22年(1553)、堀秀重の長男として美濃国で生まれる。幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたという。最初、大津長昌、次いで木下秀吉に仕え、永禄8年(1565)に13歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた(顔が美形だったためとも言われる)。16歳で、将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど、各種の奉行職を務め、側近としての地位を確立する。信長の側近には秀政のほかに、菅屋長頼・福富秀勝・大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・万見重元らがいる。秀政は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。織田軍の主要な合戦である天正3年(1575)の越前一向一揆討伐に参加。天正5年(1577年)の紀伊雑賀討伐戦では信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いる。翌年の有岡城の戦いでは、万見・菅屋らと鉄砲隊を率いる。天正7年(1579)の安土宗論のとき菅屋・長谷川らと奉行を務める。翌・天正8年(1580)、バテレン屋敷の造営奉行を菅屋・長谷川らと務める。同年、信長の蜂須賀正勝宛の書状に副状を出す、などがある。天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱において信楽口からの部隊を率い、比自山城の戦いなどを戦い抜いている。同年、近江国坂田郡に2万5,000石を与えられた。天正10年(1582)の甲州征伐では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠が武田氏を滅ぼした後だったため戦闘には参加しなかった。本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外されたあと、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後、備中の秀吉の下へ向かっている。清洲会議により、秀政は丹羽長秀に代わって近江国の佐和山城を拝領し(佐和山は北ノ庄城攻めの恩賞として賜ったという史料もある)、三法師の蔵入地の代官と守役を承る。天正10年(1582)10月20日付の書状には羽柴の名字を使用しており、秀吉の一族以外で初めて羽柴氏(名字)を与えられた、と考えられている。天正11年(1583)4月、秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻めた。家康が秀吉に宛てた書状には「はた又、久太郎(秀政)方砦へ、柴田取りかかり候のところ、すなはち合戦に及び、切り崩され、あまた討捕られ候えば、定めて比類なき儀、心地よく候、云々」と秀政の軍功を褒めている。戦後、従五位下・左衛門督に叙任。従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。家康本隊とは戦わず退却。天正13年(1585)、秀吉が関白になると、秀政は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任。同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)や四国平定戦による軍功により丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石を与えられた。与力に加賀小松の村上義明、加賀大聖寺の溝口秀勝が付けられた。天正14年(1586)には、長谷川秀一とともに昇殿を許された。なお、秀政が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。天正15年(1587)の九州平定にも参陣。秀政は先鋒部隊を任される。天正16年(1588)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられる。 箱根口を攻め上り、山中城を陥落。小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。しかし5月下旬に疫病を患い、陣中にて急死した。享年38。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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