『歴史の時変変遷』(全361回)185“安土の宗論”「安土宗論」天正7年(1579)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。法華宗は敗れて処罰者を出

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『歴史の時変変遷』(全361回)185“安土の宗論”「安土宗論」天正7年(1579)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。法華宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。『信長公記』等に依ると、1579年5月中旬、浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念という長老が上方へ出てきて安土の町で説法をしていた。そこに法華宗信徒の建部紹智と大脇伝介が議論をふっかけた。霊誉長老は「年若い方々に申し開きを致しましても、仏法の奥深いところは御理解出来ますまい。お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。説法の期間は7日の予定だったが、11日に延長して法華宗の方へ使者を出させた。法華宗の方も、では宗論をやろうと京都の頂妙寺の日珖、常光院の日諦、久遠院の日淵、妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋の当主の弟で、妙国寺の僧普伝という歴々の僧たちが来る事になった。そしてこの噂が広まり、京都・安土内外の僧俗が安土に集まると騒ぎは大きくなり、信長も伝え聞く事になる。信長は「当家の家臣にも法華の宗徒は大勢いるので、信長の考えで斡旋をするから、大袈裟な事はせぬ様に」と、菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らを使者として両宗に伝えた。しかし、浄土宗側ではどの様な指示でも信長に従うと返答したが、法華宗側は宗論に負けるわけがないと驕って従わず、ついに宗論をする事になってしまう。そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけ、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀(てつそうけいしゅう)を審判者に招いた。そして折り良く因果居士(いんがこじ)が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。寺内の警備に、津田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の5人を派遣。法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、頂妙寺日珖、常光院日諦、寂光寺日淵、妙国寺普伝、そして妙顕寺の大蔵坊の5人が記録係として、法華経八巻と筆記用具を持って登場。浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。法論の出席者は以下の通り。★浄土宗側 - 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)★法華宗側 - 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)★判定者 - 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)★名代 - 津田信澄★奉行 - 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一★目付役 - 矢部家定、森蘭丸◇◆『信長公記』等に依ると法論の概要は以下の通り。*霊誉「私が言い出した事なので、私から発言しましょう」*しかし、貞安はそれを遮って早口で問いを発した。*貞安(浄土宗側)問う 法華八軸(8巻)の内に念仏はありや。*法華側答う 念仏あり。*浄土側問う 念仏の義あらば、何故法華は念仏無間(日蓮が説いた四箇格言の一つ)地獄に落ちると説くや。*法華側答う 法華の弥陀(阿弥陀如来)と浄土の弥陀とは一体や、別体や。*浄土側曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。*法華側答う 左様ならば、何故浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)[3]」として捨てるや。*浄土側曰く それは念仏を捨てよと云うに非ず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。*法華側答う 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。*浄土側曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。*(法華側曰く)[4]法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実とあり。*土側曰く 釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。*華側答う 今言うは、四十余年の四妙中の何れや。*浄土側曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。*法華側返答なし。閉口す。*浄土側重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。重ねて問いし所、*法華側無言。其の時、判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。* 
天正七年己卯年五月二十七日辰刻
宗論が終った直後、頂妙寺の日珖は「妙」の一字に答えられず、群集に打擲され、法華八巻は破り捨てられた。法華宗の僧や宗徒達は逃げ散ったが、これを津田信澄らが捕え、宗論の記録を信長の下へ届けた。信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出して、霊誉と聖誉に扇と団扇を贈り、大いに褒め称えた。審判者の景秀鉄叟には杖を進呈した。そして大脇伝介を召しだして「一国一群を支配する身分でもすべき事ではないのに、お前は俗人の塩売りの町人ではないか。この度は霊誉長老の宿を引き受けたにも係わらず、長老の応援もせず、人に唆されて問答を挑み、京都・安土内外に騒動を起こした。不届きである」と、厳重に申し渡して真っ先に斬首した。また、普伝を召しだして普伝の業績を問い質(ただ)した。普伝は一切経の何処にどんな文句があるか諳んじる程博識である。しかし、何宗にも属していない。彼の行状は、ある時は小梅の小袖、ある時は摺箔の衣装など結構な物を着て、ぼろぼろになると、仏縁を結ぶと称して、これを人々に与えていたそうである。得意顔をしていたが、よくよく調べてみると小袖は値打ちのない紛い物であった。博識の普伝が納得して法華宗に入ったとなれば、法華宗は益々繁栄するからと懇願され、金品を受け取ってこの度法華宗に属したのである。よい歳をして嘘を吐いていた訳である。「今度の宗論に勝ったら、一生不自由しない様にしてやろうと法華宗から堅い約束をされ、金品を受け取って、役所にも届を出さずに安土に来た事は、日頃の言い分に反し、不届きである」更に信長は追及して「宗論の場では己は発言せず、他人に問答をさせて、勝ち目になったらしゃしゃり出様と待ち構えていた。卑劣な企みで、真にけしからぬ」と、普伝の首も斬った。残った法華宗の歴々の僧達へは、次の様に言い渡した。「大体、兵達は軍役を日々勤めて苦労しているのに、僧職の者達は寺庵を結構に造り、贅沢な暮らしをしている。それにも関わらず、学問もせず『妙』の一字にも答えられなかったのは誠に許し難い。ただし法華宗は口が達者である。後日、宗論に負けたとは多分言うまい」、そして「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しない、との誓約書を出すがよい」と申し渡した。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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