史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。

石川4
『戦国時代の群像』111(全192回)石川 康長(1554~1643)安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。諱は三長(みつなが)、数長(かずなが)とも言う。石川数正の長男として生まれ、徳川家康に仕える。天正12年(1584年)、家康の次男秀康が大坂に送られた際に本多成重(仙千代)や弟・康勝(勝千代)と共に扈従し[5]、翌天正13年(1585年)、父が家康の下を出奔して豊臣秀吉に仕えたのに従って、豊臣家に仕える。文禄元年(1592年)、文禄の役では父の代理として[6]肥前名護屋城に詰めて、在陣衆の1つとして500名を率いて駐屯した[7]。父の死去により、家督を継いで第2代藩主となり[8]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分知された。康長は父の代より続く居城の松本城(深志城)の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている。文禄3年(1595年)、伏見城普請を分担。慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。同年10月29日、従五位下式部大輔に叙任される[。慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、そのまま東軍に与する。徳川秀忠の中山道軍に従い、西軍の真田昌幸を攻撃することになり、康長は日根野吉重[11]と共に上田城の支城・冠者ヶ嶽城を攻めて大敗した[13]。このため関ヶ原本戦には参加できなかったが、東軍であったことで、所領は安堵された。慶長18年(1613年)10月19日、大久保長安と縁戚関係にあったことから、大久保長安事件に連座。領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次と共に改易され、康長の身柄は佐伯藩主毛利高政の預とされて、豊後佐伯に流罪に処された。改易の理由は、分限を超えた城普請が原因であったとする説や、幕府の外様大名外しであったとする説などもある。寛永19年(1642年)12月11日に配所で死去した。享年89[1]。

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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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