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『歴史の時々変遷』(全361回)182“耳川の戦い”「耳川の戦い」天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久

耳川3 (2)
『歴史の時々変遷』(全361回)182“耳川の戦い”「耳川の戦い」天正6年(1578)、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。薩隅日(南九州)の支配者である島津氏と豊筑肥(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢・臼杵鑑速・志賀親度・佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克・島津季久・村田経定・伊集院久信・平田昌宗・伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。また、永禄3年(1560)に室町幕府将軍・足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝(政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。ところが、天正5年(1577)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。その頃、大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。こうした状況の中、天正6年(1578)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征を決定する。一方、毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、この年の9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。しかし、大友家内部では宗麟の狂信的なキリスト教への傾倒などから家臣団との間に不協和が生じていた。立花道雪らは開戦に時期尚早と強く反対していた。また、合戦直前の大友軍の軍議で田北鎮周は交戦を主張していたが、大将の田原親賢は裏で島津軍との和睦交渉を進めていたためこれに応じなかった。田北鎮周がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けたため大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも結局交戦に至り、やむなく秘伝の奥義書を焼いて敵中に突入し戦死している。当初は大友軍が島津軍を兵力の差で押していたが、徐々に大友軍の兵士に疲労の色が見え始め、また大友軍は追撃により陣形が長く伸びきっており、そこを島津軍が突いたことによって戦況は一転し、大友軍は敗走する。大友軍は3000人近い人数が戦死したが、これの大半は敗走後に急流の耳川を渡りきれず溺死した者や、そこを突かれて島津軍の兵士に殺されたものだという。
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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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