『戦国時代の群像』110(全192回)[仙石 秀久](1551~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。

仙石2
『戦国時代の群像』110(全192回)[仙石 秀久](1551~1614)戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。豊臣秀吉の最古参の家臣で少年の頃より仕え、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで大敗し改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。天文21年(1552年)1月26日、美濃国の土豪・仙石治兵衛久盛の四男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)に生まれた。系図によれば仙石氏は藤原利仁を祖として始まったと伝承されており、本姓は藤原姓であった。しかし仙石基秀の代に土岐氏の血を引く親族の仙石久重が後継者とされ、久重は基秀の娘と婚姻して家督を継承した。これ以降、仙石氏は源姓(土岐源氏支流)を称している。土岐氏没落後は台頭した斎藤氏に仕え、父・久盛も斎藤家三代に奉公した。四男であった秀久は家督を引き継ぐ可能性が低く、親交のあった越前国の豪族である萩原国満の養子として引き取られている。だが織田氏と斎藤氏が対峙する中で嫡男が相次いで倒れると久盛から急遽呼び戻され、仙石氏の家督を譲られる。永禄10年(1567年)、主君の斎藤龍興が織田信長との稲葉山城の戦いに敗れて落ち延びた後、信長は秀久の勇壮な風貌を気に入り[4]、配下である羽柴秀吉の寄騎に任命した。永禄7年(1564年)、14才で織田家入りを果たしてからは羽柴隊(木下隊)の馬廻衆として各地を転戦し、最古参の家臣として秀吉から寵愛を受けた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加している。この戦いで浅井方の山崎新平を討ち取った功績により、天正2年(1574年)に秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられ、一領主となった。豊後国にて防備を固めよという秀吉の命令を順守せず、独断で会戦に望んだ上で敗北した事は秀吉の勘気を被るに十分な理由と言えた[1]。加えて敗走する軍を取りまとめる軍監役としての責務を果たさず、諸侯を差し置いて小倉城に入城した事も不名誉となった。小倉城に引き退いた後も防戦は行わず、20名の家臣団と共に遠征軍の敗残兵を率いて讃岐国へ退却してしまい、敗北と合わせてそれまでの名望を一挙に失う事となる。秀吉は仙石氏に与えた讃岐国を召し上げ(改易)、秀久に対しては高野山追放の処分を下した。改易から暫くは高野山にて隠棲し、京都・大坂に滞在していた時期もあったという。 だが天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると三男・仙石忠政と共に美濃国で20名の旧臣らを集め[6]、浪人衆を率いて秀吉の下に馳せ参じた。陣借りには秀吉の盟友となっていた徳川家康からの取り成しを受けている。秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。際立っていたのは扮装だけではなく、槍働きにおいても随一の活躍を示した。若き頃と同じく自ら十文字の槍を振るって力戦した秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程であった。戦勝の後、秀吉に謁見を許された秀久は忠勇を賞されて、秀吉が使っていた金の団扇を手づから下賜された逸話が残っている。この場面は『道樹・宗智両祖出陣之図』にも描かれており、金団扇も現存している。秀吉の許しを得た秀久は旧領の半分に相当する信濃国小諸に5万石を与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。小諸城入城後、諱を秀久から秀康に改めている[5]。豊臣政権下では領地の小諸城ではなく、秀吉の家臣として京に滞在していたとされている[5]。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵が始まると肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても同様の功績を挙げたため、7,000石を加増され、5万7,000石の大名となった。築城に関わった伏見城では大盗賊・石川五右衛門を捻じ伏せ、捕縛したとの伝承が残っている。秀久は秀吉から石川五右衛門が盗もうとした大名物「千鳥の香炉」を褒美として拝領した。慶長2年(1597年)、仙石越前守盛長と記した龍雲寺への寄進状が残っており、秀康から更に諱を変えたものと考えられている[5]。またこの頃から領地経営に本腰を入れ、居城である小諸城の大改修に取り掛かっている。慶長3年(1598年)8月、秀吉が薨去すると豊臣政権内で武断派と文治派の対立、及び五大老五奉行らの内紛が始まる。陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近していたとみられる。慶長5年(1600年)の会津征伐に参加を求める家康の書状に応えて兵を招集し、立て続けて関ヶ原の戦いが起きると中山道と北国街道を結ぶ交通の要所である小諸を引き続き鎮撫している。因みに嫡男とされていた次男の仙石秀範は独断で西軍に与した事から勘当されている。信州に徳川秀忠が着陣するとこれを単騎で出迎え、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いで城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。所領面では旧領を安堵され、幕藩体制において信濃小諸藩の初代藩主となった。慶長6年(1601年)、諱を秀久に戻している。小諸藩主としての秀久は熱心に領地の開拓や整備に取り組み、先に述べた小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、小諸城を近代城郭として完成させた[5]。特に大手門は歴戦の武人らしく華美な装飾を省き、慶長風の質実剛健な作りとなっている。 八幡宮(八幡神社)の勧進や街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残し、笠取垰と小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績といえる。一方で大規模な開拓事業の為に農民達には過酷な課役を与えてしまい、佐久郡では一郡逃散という事態が起きている[注釈 5]。しかし、その後は農民の逃亡を防ぐ農村復興策として、年貢の減額・猶予による農民の帰還や、農村の有力者に恩給を与えて家臣化するなど改善策に取り組み、後に藩主となった三男の忠政も逃散した農民達への帰還を呼びかけている。幕府からの信頼は篤く、豊臣恩顧の大名達の中で尚且つ一介の外様大名としては過分とも言える程の待遇で扱われており、秀忠付という名誉職を賜っている。秀久が江戸に参府する時は例外的に道中の妻子同伴が許され、必ず幕府からの上使が板橋宿まで迎えに来ていたという。慶長13年(1608年)の冬には秀忠が江戸の秀久邸を訪れて歓談している。慶長14年(1609年)に秀忠の将軍宣下御拝賀に随行し、慶長16年(1611年)正月2日の御謡初めの際にも着座を許されている。慶長19年(1614年)、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去した。享年64。遺骸は小諸の西念寺で荼毘に付され、墓所が複数存在する事から分骨が行われたと考えられる。『改選仙石家譜』ではその内の一つである芳泉寺の墓所を正式な霊廟としている。家督は三男・忠政が継いだ。

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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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