史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)180“小田原征伐” 「小田原征伐」天正18年(1590)に豊臣秀吉が大義名分によって後北条氏を征伐し

小田原2
『歴史の時々変遷』(全361回)180“小田原征伐”
「小田原征伐」天正18年(1590)に豊臣秀吉が大義名分によって後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。惣無事令違反を名目に起こした征討で、天皇は後北条氏討伐の勅書を発していなかったものの、関白であった豊臣秀吉は、天皇の施策遂行者として名分を備えていたという立場で臨んでいた。小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。「小田原攻め」、小田原合戦、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれる。★豊臣側の主だった大名主力:豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、加藤清正、福島正則。約17万。水軍:長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治。約1万。北方隊:前田利家、上杉景勝、真田昌幸。約3万5千。推定総計約21万。
★後北条側の主だった諸将小田原城:北条氏直、北条氏政、北条氏照、成田氏長、垪和康忠、松田憲秀、笠原政晴、笠原政尭その他の城:松田康長(山中城)、成田泰季(忍城)、北条氏規(韮山城)、大道寺政繁(松井田城)、北条氏邦(鉢形城)豊臣側の基本的戦略としては、北方隊で牽制をかけながら、主力は小田原への道を阻む山中、韮山、足柄の三城を突破し、同時に水軍で伊豆半島をめぐって小田原に迫らせる方針であった。一方、兵力で劣るとは言いながらも後北条氏側も5万余の精鋭部隊を小田原城に集め、そこから最精兵を抽出して山中、韮山、足柄の三城に配置した。主力を小田原に引き抜かれた部隊には徴兵した中年男子などを宛てた。各方面から豊臣側が押し寄せてくるのは明らかであったが、それ以上に主力が東海道を進撃するのが明らかだったため、箱根山中での持久戦を想定した戦略を推し進めることになった。野戦を主張した氏邦がこの戦略に異を唱え、手勢を率いて鉢形城に帰る事態となったが、最終的にこの戦略が採られる事となった。とはいえ、松井田城には大道寺政繁率いる数千の兵が、さらに館林城にも同程度の兵が割り振られていた事を考えると、北関東にもある程度の備えは配置されていたといえる。
天正18年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着。29日に進撃を開始。進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。山中城攻撃軍の編成 合計67800人右軍 計18300人(池田輝政 2,500人、木村重茲 2800人、長谷川秀一 3,600人、堀秀政8,700人、丹羽長重 700人)中軍 計19500人(豊臣秀次 17,000人)左軍 徳川家康 30,000人山中城守備軍[5] 4,000人(城主 松田康長、援将 北条氏勝、他間宮康俊、松田康郷、蔭山氏広等)秀吉は山中城攻撃軍の大将を兵数と官位のより高い家康ではなく、秀次と認識していた[6]。山中城では一柳直末が討死したものの数時間の戦闘の後落城し、松田康長は北条氏勝を逃して手勢を率いて玉砕。徳川勢は山中城落城の同日に鷹之巣城を、翌日に井伊直政隊が攻城を開始した足柄城を4月1日に落とし、先鋒部隊は早くも4月3日には小田原に到着した。天正18年(1590年)3月29日から6月24日まで続いた。韮山城攻撃軍の編成 合計44,100人右軍 計8,400人蒲生氏郷 4,000人、稲葉貞通 1,200人)中軍 計9,700人(筒井定次 1,500人、生駒親正 2,200人、蜂須賀家政 2,500人、福島正則 1,800人、戸田勝隆 1,700人)左軍 計9,000人(細川忠興 2,700人、森忠政 2,100人、中川秀政 2,000人、山崎片家・岡本良勝等 2,200人)旗本 織田信雄 17,000人韮山城守備軍[5] 約3,640人(城主 北条氏規)韮山城では攻撃側の10分の1しかいない城兵が織田信雄勢を阻み包囲戦となる。そのため、秀吉は韮山城包囲のための最小限の兵力を残し、織田信雄以下の主力は小田原方面に転進させた。下田城攻撃軍の編成[5] 約10,000人(水軍 長宗我部元親、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆。吉見広頼(毛利家))下田城守備軍[5] 約600人(城主 清水康英、援将 江戸朝忠)水軍部隊は後北条氏配下の伊豆水軍を撃破して伊豆半島沿岸の諸城を落とし、小田原沖に展開する。小田原包囲戦が始まると秀吉は氏直の戦意低下のため、石垣山に石垣山城を築き、茶人の千利休を主催とし大茶会などを連日開いた。茶々などの妻女も呼び寄せ、箱根で温泉旅行などの娯楽に興じ、富と権力を誇示するための示威行為を小田原を中心として繰り広げることとなった。天正18年(1590年)3月28日から4月20日まで続いた。松井田城攻撃軍の編成[5] 約35,000人西部(追手)上杉景勝 約10,000人東部(搦手)前田利家・前田利長 約18,000人北部 約7,000人(松平康国・康貞 約4,000人、真田信幸 約3,000人)松井田城守備軍[5] 約2,000人(城主 大道寺政繁)一方、前田勢・上杉勢ら北国勢と、途中で合流した信州勢を主力とする北方隊は、3月に入るや否や松井田城攻略に取り掛かった。大道寺政繁は嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に4月20日についに降伏。道案内をすることとなった。その後、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)と上野の各城を開城勧告などで難なく攻め落とした。一方、小田原包囲勢から主に徳川勢から兵力を抽出して北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。玉縄城(4月21日)、江戸城(4月27日)と武蔵の諸城を次々に陥落させると、戦力を二手に分け、片方は下総方面に向かわせた。浅野長政・内藤家長(徳川家臣)らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とし、逆に秀吉から浅野に対して敵である房総諸将の不甲斐無さを詰って房総諸城の攻略は戦功として認めないとする書状が送られたほどであったという(5月20日付、「浅野家文書」)。もう一方は河越城を陥落させ、岩付城も5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。天正18年(1590)5月19日から22日まで続いた。




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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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