史跡を巡る歴史の憧憬               川村一彦

『歴史の時々変遷』(全361回)179“根来攻め”「根来攻め」ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段

根来1
根来2
『歴史の時々変遷』(全361回)179“根来攻め”「根来攻め」ついに秀吉による紀伊侵攻が開始された。上方勢は秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手・山手の二手に分かれて23段に布陣した。さらに多数の軍船を揃えて小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めた。これに対し根来・雑賀衆は沢・積善寺・畠中・千石堀などの泉南諸城に合計9,000余人の兵を配置して迎撃した。3月20日、先陣の秀次勢は大坂を発し、貝塚に到着。21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城に入る。同日、先陣諸勢は泉南城砦群に接近したが、既に昼を過ぎていたことから即日攻撃か翌日に延期するかで議論になった。中村一氏が「これだけの兵力差があるのに攻撃を延期するのは他国への印象が悪い」と即時開戦を主張したため、直ちに戦端が開かれた。まず防衛線の東端にあたる千石堀城で攻防が始まった。千石堀城に籠るのは城将大谷左大仁以下根来衆の精鋭1,400 - 1,500人、他に婦女子など非戦闘員が4,000 - 5,000人加わっていたとされる。攻める上方勢は羽柴秀次を主将に堀秀政・筒井定次・長谷川秀一の諸将だった。筒井・長谷川・堀勢ら15,000人が進撃すると、城兵500余人が討って出て横合いから弓・鉄砲で奇襲を仕掛けた。「城内より鉄砲を放つこと、平砂に胡麻を蒔くがごとし」という猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出した。筒井勢などは傘下の大和衆・伊賀衆を合わせて8,000人で戦闘に臨んだが、城兵の銃撃の前に進撃を阻まれた。味方の苦戦を見て、羽柴秀次は千石堀城がにわか造りゆえに防備は十分でないと推測し、田中吉政・渡瀬繁詮ら直属の将兵3,000余人を側面から城に突撃させた。しかしこれも城方の弓・鉄砲の反撃にあって多数の討死を出す。秀次は自身の馬廻も投入して二の丸に突入させ、城兵300余人を討ち取ってさらに本丸を攻めるが、またしても城兵の弓・鉄砲により阻まれた。一連の攻防により、秀次勢の死傷者はわずか半時(約1時間)の間に1,000余人に達したという。この時、筒井勢のうち中坊秀行と伊賀衆が搦手に迂回して城に接近し、城内へ火矢を射込んだ。この火矢が城内の煙硝蔵に引火爆発したため城は炎上、これが致命傷となり落城した。城内の人間は焼け死に、討って出た城兵はことごとく戦死した。秀吉は人も動物も皆殺しにするよう厳命し、城内にいた者は非戦闘員はおろか馬や犬猫に至るまで全滅した。畠中城では、日根郡の地侍・農民らからなる城兵と中村一氏が対戦した。千石堀城が陥落した21日夜、城兵は城を自焼して退却した。同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城でも戦闘が始まった。井出原右近(出原右近)・山田蓮池坊らの指揮する根来衆からなる城兵に対し、細川忠興・大谷吉継・蒲生賦秀・池田輝政らが攻撃を担当した。城兵は石・弓・鉄砲を放ちながら討って出て、寄手の先鋒細川勢と激戦を繰り広げた。細川勢の犠牲は大きかったが、蒲生勢も戦線に加わり松井康之を先頭に攻撃して城兵は城内に引き籠った。翌22日、貝塚御坊の住職卜半斎了珍の仲介により積善寺城は開城した。西端の沢城でも戦いが始まっていた。城を守る雑賀衆[68]を攻めるのは高山重友・中川秀政の両勢である。ここでも押し寄せる上方勢に城兵の鉄砲という図式は変わらず、寄手の負傷者は多数に上った。中川秀政は自ら陣頭に立って攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫った。本丸に追い詰められた城兵は投降を申し出、秀吉の許可の元に羽柴秀長が誓詞を入れ、23日に開城した。3月23日、和泉を制圧したのを見届けて秀吉は岸和田城を発し、根来寺に向かう。根来衆の主要兵力は和泉の戦線に出払っていて、寺には戦闘に耐えうる者はほとんどいなかった[71]。残っていた僧侶は逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された[72]。その夜根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰燼に帰した。根来寺は3日間燃え続け、空が赤く輝く様子が当時貝塚にあった本願寺から見えたという。根来寺炎上の原因については、根来側による自焼説、秀吉による焼き討ち説と兵士による命令によらない放火または失火説[がある。同日、もしくは翌24日には粉河寺が炎上した。少しさかのぼって22日、有田郡の国人白樫氏に誘われて上方勢に寝返った雑賀荘の岡衆が同じ雑賀の湊衆を銃撃し、雑賀は大混乱に陥った。同日土橋平丞は長宗我部元親を頼って船で土佐へ逃亡し[77]、湊衆も船で脱出しようとしたが、人が乗りすぎて沈没する船が出るなどして大勢の死者が出た。翌23日に上方勢の先鋒が雑賀荘に侵入し、24日には根来を発した秀吉も紀ノ川北岸を西進して雑賀に入った。同日、上方勢は粟村の土橋氏居館を包囲した。また上方勢は湊・中之島一円に放火し、他の地域もおおむね半分から三分の二は焼亡したが、鷺森寺内及び岡・宇治は無事だった。こうして雑賀荘は「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評される最期を遂げた。4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた[86]。応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中の秀吉と面会した。応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された[88]。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された。また木食応其個人に1,000石が与えられた。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から1万石寄進されたため計2万1,000石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら5,000人が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。





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Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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