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“日本名僧・高僧伝”48・日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗)の宗祖。

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“日本名僧・高僧伝”48・日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗)の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生[2][3]。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 4]。1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。1253年(建長5年)清澄寺に帰山。1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に法華経を奉納[5]。1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読[6]。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする。1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 6]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。その後、ふたたび布教をおこなう。1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。詳細は「蓮着寺」を参照1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。1269年(文永6年)富士山に経塚を築。1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 7]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。1277年(建治3年)9月、日蓮が見た夢の話では、]身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。1282年(弘安5年)9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて死去。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)。 10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。



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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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