『戦国時代の群像』105(全192回)村上 頼勝(?~1604)忠勝)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。諱は義明または忠勝ともし、諸系図では村上 義明

村上2
『戦国時代の群像』105(全192回)村上 頼勝(?~1604)忠勝)安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。諱は義明または忠勝ともし、諸系図では村上 義明(むらかみ よしあきら)とされている。出自は不明。『断家譜』では村上義清の次男とされるが、『系図纂要』や『藩翰譜』では村上常陸介義利の嫡男(つまり義清の孫)とされる。ただし『寛政重修諸家譜』ではどちらの記述もない。はじめ丹羽長秀に仕えて家人となったが、天正13年(1585年)4月16日に長秀が死去すると、嫡男長重のもとから去って豊臣秀吉の直臣となり、同年閏8月13日、加賀国能美郡に6万6,000石を与えられた。医師の曲直瀬道三と交流があり、天正14年(1586年)道三に懇うて、日常生活における養生の心得を『養生和歌』として相伝していた。この養生心得は、養生要諦三ヶ条と一般的心得十七首、世上の慎み七首から構成されている[2]。秀吉の命で、越前北ノ庄の堀秀政の与力大名となり、天正15年(1587年)の九州の役、天正18年(1590年)の小田原の役に従軍した。同年に秀政が亡くなると、引き続き秀治の与力となった。天正19年(1591年)9月、能美郡長田村を検地。文禄元年(1592年)、朝鮮出兵では肥前名護屋城に2,000名を率いて駐屯した。伏見城と大和多門城の普請分担。慶長3年(1598年)4月、堀秀治の越後転封に伴い、越後本庄城(のち村上城と改める)9万石に加増移封された。8月の秀吉の死で遺物左文字の刀を受領。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは越後に在国。堀秀治と同じ東軍に与して、国内で起こった西軍方の上杉旧臣による上杉遺民一揆の鎮定に努め、戦後は徳川家康から所領を安堵された。頼勝には男子がなく、はじめ堀秀政の三男を養子として貰い受けたが早世したため[3]、娘婿戸田内記の子の忠勝を養子にして、隠居した。また、別の娘は権大納言烏丸光広の側室となって、光賢を産んでいる。


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Author:侏儒のつぶやき
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