“日本名僧・高僧伝”親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 5])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる

親鸞1
“日本名僧・高僧伝”親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 5])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる。法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。親鸞の念仏集団の隆盛が[要出典]、既成の仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中で]、宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。浄土真宗の立教開宗の年は、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)が完成した寛元5年(1247年)とされるが、定められたのは親鸞の没後である。親鸞は、自伝的な記述をした著書が少ない、もしくは現存しないため、その生涯については不明確な事柄が多く、研究中であり諸説ある。また本節の記述は、内容の一部が史実と合致しない記述がある書物や、弟子が記した書物(『御伝鈔』など)によるところが多い。それらの書物は、伝説的な記述が多いことにも留意されたい。永承7年(1052年)、末法の時代に突入したと考えられ、終末論的な末法思想が広まる(「末法」の到来を参照)保元元年(1156年)7月9日、保元の乱起こる。平治元年(1159年)12月9日、平治の乱起こる。貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化が起こる。承安3年(1173年)4月1日)に、現在の法界寺、日野誕生院付近(京都市伏見区日野)にて、皇太后宮大進 日野有範の長男として誕生する。治承4年(1180年) - 元暦2年(1185年)、治承・寿永の乱起こる。治承5年/養和元年(1181年)、養和の飢饉が発生する。洛中の死者だけでも、4万2300人とされる。戦乱・飢饉により、洛中が荒廃する。治承5年(1181年)9歳、叔父である日野範綱に伴われて京都青蓮院に入り、後の天台座主・慈円(慈鎮和尚)のもと得度して「範宴」(はんねん)と称する。伝説によれば、慈円が得度を翌日に延期しようとしたところ、わずか9歳の範宴が、「明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んだという。無常感を非常に文学的に表現した歌である。出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登り、慈円が検校(けんぎょう)を勤める横川の首楞厳院(しゅりょうごんいん)の常行堂において、天台宗の堂僧として不断念仏の修行をしたとされる。叡山において20年に渡り厳しい修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。建久3年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任じられ、鎌倉時代に移行する。建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に叡山と決別して下山し、後世の祈念の為に聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠[注釈 12]を行う。そして95日目(同年4月5日)の暁の夢中に、聖徳太子が示現され(救世菩薩の化身が現れ)、「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」意訳 - 「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となりましょう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは導いて極楽に生まれさせよう。」という偈句(「女犯偈」)に続けて、「此は是我が誓願なり 善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生にきかしむべし」の告を得る。この夢告に従い、夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)の法然の草庵を訪ねる。(この時、法然は69歳。)そして岡崎の地(左京区岡崎天王町)に草庵を結び、百日にわたり法然の元へ通い聴聞する。法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。これを機に法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。親鸞は研鑽を積み、しだいに法然に高く評価されるようになる『御伝鈔』では、「吉水入室」の後に「六角告命」の順になっている。またその年についても「建仁第三乃暦」・「建仁三年辛酉」・「建仁三年癸亥」と記されている。正しくは「六角告命」の後に「吉水入室」の順で、その年はいずれも建仁元年である。このことは覚如が「建仁辛酉暦」を建仁3年と誤解したことによる誤記と考えられる。詳細は「本願寺聖人伝絵#覚如による錯誤」を参照。元久元年(1204年)11月7日、法然は「七箇条制誡」を記し、190人の門弟の連署も記される。その86番目に「僧綽空」の名を確認でき、その署名日は翌日の8日である[17]。このことから元久元年11月7日の時点では、吉水教団の190人の門弟のうちの1人に過ぎないといえる。元久2年(1205年)4月14日、入門より5年後には『選択本願念仏集』(『選択集』)の書写と、法然の肖像画の制作を許される(『顕浄土真実教行証文類』「化身土巻」)。法然は『選択集』の書写は、門弟の中でも弁長・隆寛などごく一部の者にしか許さなかった。よって元久2年4月14日頃までには、親鸞は法然から嘱望される人物として認められたといえる。元久2年(1205年)閏7月29日、『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」に「又依夢告改綽空字同日以御筆令書名之字畢」(また夢の告に依って綽空の字を改めて同じき日御筆をもって名の字を書かしめたまい畢りぬ)と記述がある。親鸞より夢の告げによる改名を願い出て、完成した法然の肖像画に改名した名を法然自身に記入してもらったことを記している。京都在所時に玉日と結婚後に越後に配流され、なんらかの理由で越後で恵信尼と再婚したとする説。玉日と恵信尼は同一人物で再婚ではないとする説。法然の元で学ぶ間に、善鸞の実母と結婚し、流罪を契機に離別。配流先の越後で越後の在庁官人の娘である恵信尼と再婚したとする説。この説を提唱した平雅行は、恵信尼の一族が京都での生活基盤を失った理由や越後にもち得た理由の説明がつかないため、在京の豪族三善為教の娘ではありえないとしている。また天文10年(1541年)に成立した『日野一流系図』の記載は疑問点が多く史料として価値が低いとしている。当時は、高貴な罪人が配流される際は、身の回りの世話のために妻帯させるのが一般的であり、近年では配流前に京都で妻帯したとする説が有力視されている。親鸞は、妻との間に4男3女(範意〈印信〉・小黒女房・善鸞・明信〈栗沢信蓮房〉・有房〈益方大夫入道〉・高野禅尼・覚信尼)の7子をもうける。ただし、7子すべてが恵信尼の子ではないとする説、善鸞を長男とする説もある。善鸞の母については、恵信尼を実母とする説と継母とする説がある。(詳細は「善鸞#恵信尼との関係」を参照。)事件の経緯は承元の法難を参照。元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。建永2年(1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん) と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、「改名について」も参照。)承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じての宣旨が順徳天皇より下る。


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侏儒のつぶやき

Author:侏儒のつぶやき
趣味歴史。歴史研究会に参加。フェイスブック「史跡探訪と歴史の調べの会」管理。
著書多数。歴研出版より「平安僧兵奮戦記」自費出版「古事記が語る古代の世界」「古事記が描く説話の憧憬」『芭蕉紀行世情今昔』他多数。

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