「新西国観音三十三所巡り」浄土寺・“新西国札所客番”兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建

じ浄土寺3
「新西国観音三十三所巡り」浄土寺・“新西国札所客番”兵庫県小野市にある高野山真言宗の寺院。山号を極楽山と称する。本尊は薬師如来と阿弥陀如来、開山は重源で、建久年間(1190年~1198年)の創建である。多数の文化財を所有する古刹として知られ、大仏様建築の浄土堂と仏師快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。浄土寺の建つ地には、奈良時代の僧・行基の建立した前身寺院があったとも言われるが、実質的な開山は平安時代末~鎌倉時代の僧で、東大寺大仏・大仏殿の鎌倉復興に尽力した重源である。治承4年(1180年)、平重衡の軍勢による南都焼き討ちで、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた。この大仏・大仏殿の再興の大勧進となったのが、当時六十一歳の重源であった。重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀、周防など日本の七か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を播磨国大部荘といい、東大寺領であった。境内には池を中心にして、西に重源当時の建築である浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の薬師堂(本堂)が建つ。この配置は偶然ではなく、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している。浄土寺浄土堂は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する。堂は建久五年(1194年)に上棟し、同八年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている。渡宋経験のあった重源は、大仏殿をはじめとする東大寺諸堂の復興や各地の別所寺院の建築に際し、当時の中国(宋)の最新式の建築様式を採用した。これが現代において大仏様(かつては天竺様とも呼んだ)と呼ばれる建築様式で、鎌倉時代以後の寺院建築に大きな影響を与えたが、重源が手がけた大仏様建築で現存するものは他に東大寺南大門と同寺開山堂のみである。堂は方三間の単純な平面構成になるが、1つの柱間が約6メートルもあり、内部空間は広大である。作風には当時流行の宋風が顕著である。 浄土寺の阿弥陀三尊の脇侍は左右逆配置である、この配置は密教寺院に存在する様で「阿唎多羅陀羅尼阿嚕力経」や「観自在最勝心明経第九品」などの「密教系経典には右観自在・左大勢至とす」云々の記述がある。浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ。堂の背後の蔀戸を開け放つと背後からの光が入るようになっており、晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現すという劇的な光の演出効果を備えている。その際、遠方の溜池群が西方の光を運び込む装置として機能することまで、作者重源は巧みに計算していたという意見もある。

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